特集

第55回全国JA青年大会特集

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【特別対談駐日パラグアイ大使・田岡功氏と語る】
南米の密林を拓いた苦闘に学ぶ 特別対談 田岡功氏、加藤一郎氏

相互扶助そして気概と誇り
若者には“稼ぎ”の魅力を農業はやり直しが利く

田岡功氏はパラグアイ共和国の駐日特命全権大使。日本生まれの海外移住者で駐日大使となったのはこの人が初めて。パラグアイ人でないと大使になれないため日本国籍を離脱して祖国に赴任した。だが心の中には2つの祖国を持つ。この対談では日本農業の現状を憂える胸中などを語った。また南米のジャングルを切り拓いた入植当時の苦闘を振り返り、移住者たちの助け合い精神や気概、日本人としてのプライドを強調した。大使就任から4年。パラグアイでは昨年8月に野党連合出身のルゴ大統領が就任した。しかし駐日大使の異動はなく、同氏は与野党の信任を得ている。

◆日本生まれの農業者が大使に

 加藤 昨今の日本農業をめぐる情勢を見るとき、中国の詩人陶淵明の「帰りなんいざ、田園まさに荒れんとす」という詩を連想したりします。地域格差の拡大、食料自給率40%、耕作放棄地の拡大、新規就農者の減少と農村人口の高齢化などを大使はどうみられるか、また後で青年農業者へのメッセージなどもいただきたいと思うのですが、その前に大使になられた経過や感想などをお聞かせ下さい。
 田岡 こうした対談の機会を得たことは願ってもないことでパラグアイと日本の親善に少しでもお役に立てればよいと思います。外交経験などのない農業者の私が大使になるなんて、最初はふと夜中に目を覚まして、これは夢ではないのかと思ったこともありました。
 加藤 パラグアイへ移住された当時の状況はどうでしたか。
 田岡 私たち一家5人が徳島県三野町(現・三好市)から移住したのは1958年で、私は14歳でした。当時は満州からの引き揚げ者が農村にいる時代で、各県とも南米への移住を盛んに農家へ呼びかけていました。
 移住先にはブラジルやボリビアもありましたが、父はパラグアイを選びました。日本政府は現地に約1万7000haの開拓地を買っていました。父はその中で25haを買いました。
 移住者はみな日本にある財産を処分し、家族数に応じて土地を買い、中には50haの大地主として渡航した人もいます。持って行く荷物もトラック1台分の家族もあれば3台分の家族もあって様々でした。
 加藤 開拓地のジャングルを切り拓いて開墾6年、入植後20年で生活が安定して、今では1200haの大豆農場に発展させられたと聞いておりますが、大変なご苦労だったと思います。
 田岡 満州などでの開拓経験者もいれば全くの未経験者もいますから、予測しなかった厳しさに対応できない家族もいました。日本から持って行ったおカネが尽きて家財道具や衣類などを売り食いする家族もありました。このため移住した500家族のうち、残ったのは150家族ほどになりました。私自身が頑張れたのは、家族はもちろんですが、徳島時代に近所の方々から受けた優しさを感じていたことが支えになっていたと思います。
 加藤 医療のほうはどんな状況でしたか。
 田岡 お医者さんのいないことが大きな問題でした。出産では日本の昔と同じように近所のおばさんが産婆さん役を務めますが、しかし出血多量でなくなる妊婦もいました。また予想外の厳しさからノイローゼによる自殺者も出ました。
 結局、日本に戻る家族もあり、また再移住という対策も実施されました。これは、もっと住みやすいところへ引っ越すことです。現金収入を求めてアルゼンチンのブエノスアイレスへ行く人が多かったですね。

◆母国の習慣持ち込んで

駐日パラグアイ大使 田岡功氏
駐日パラグアイ大使
田岡功氏

 しかし私たち一家は踏みとどまって必死でがんばりました。父は元軍人で軍隊式に働きました。しかし家庭的には思いやりがありました。また「日本人としての誇りを持とう。日本人としての意識を忘れるな」といっていました。
 そして踏みとどまった移住者たちの団結と地域の助け合いを大切にしました。
 例えば橋を架けたりする時は地域が総出となり、その中で素人は、技術を持っている人から仕事を学びます。移住者の中にはいろいろな技術を身につけている人がいたのです。
 農作業はもちろん個人の家を建てたり直したりする時にしても共同でした。つまり昔からの日本の村の相互扶助精神を、そのままパラグアイで発揮したのです。昔の日本の村の習慣を現地に持ち込んだわけです。
 ものごとを決める時には村長や部落長が集まり、決めたことは回覧板でみんなに知らせて約束事を守りました。
 加藤 そうして農協もつくり上げられていったのですね。
 田岡 そうです。作物の販売1つにしても1人ではいけないので日本のような農協づくりを目指しました。この際も移住者の中に日本の農協の元職員がいて役割を果たしました。簿記ができる人、経理に堪能な人もいて組織整備が進みました。また販売や流通のルートも確立していきました。
 父が農協の専務になったため私もそれを手伝いました。現場では現地人に仕事を頼むと、仕上がりでは計算が違っていることがよくあり、言葉がわからないため、それがよく労働問題になります。そんな時に通訳をして法律的にこちらの主張を通すことが私の役目でした。
 このため法律の勉強などをせざるを得ませんでした。例えば交通事故で法外な請求をされた時も、法律的に争って、こちらが勝ちましたが、おかげで判事や弁護士から一目置かれるようになりました。移住者を守るという大きな役目が私にはあったわけです。
 加藤 日本のパラグアイ農業支援についてはいかがですか。
 田岡 パラグアイは大型農家なので技術的な事情は少し違いますが、品種改良では長い間お世話になっています。入植当時の大豆の単収は1tでしたが、今は3tほど穫れるようになっています。また小麦では雨に強い品種ができました。
 もう1つ報告したいのは、農協法の理解で問題が起きた時には日本から専門家に来ていただいております。新しい時代への流れの中での指導を受けたりしながら、日本的ないい面を取り入れています。
 今後とも日系人の農協が現地のほかの農協と比べて組織的にしっかりと、そして模範的な農協になれるように努力していくことを願っています。


◆日本文化を次世代へ

JA全農専務 加藤一郎氏
JA全農専務
加藤一郎氏

 振り返れば、農協が借金を返せないで差し押さえをされるとかいった時に日本の専門家が経理的な改善策や、また黒字になるような指導をしてくれて立ち直ったこともあります。
 販売にしても有利な価格をねらうだけでなく、採算ベースに乗せてから徐々に拡大をしていくとかを、JICAを通じて派遣された全中・全農のOBの方々との意見交換や指導で学びました。
 加藤 先ほど言葉のカベの話がありましたが、これについてはいかがですか。
 田岡 移住者たちの先輩が残してきた地域づくりを続けるために現在も日本語を優先させ、日本語学校をつくりました。言葉だけでなく、日本文化を広く二世三世に伝えていこうという考え方です。
 日系人の子どもはだいたい小学校6年生で日本語の1級検定試験を7、8割がパスするという教育をしています。スペイン語を優先すべきだという主張がありますが、小学校6年までは、スペイン語ができる子は日本語もよくできるし、日本語ができる子はスペイン語もできます。日本語は必ずしも子どもたちの負担になっていません。南米ではパラグアイの日本語教育がいちばん進んでいます。
 加藤 田岡さんは入植地を市に昇格させ、同時に市長に任命されて、大使になるまで18年間市長を務めました。そのことについて少しお話下さい。
 田岡 日系農協の販売・購買などの事業が拡大して市になる基盤ができました。日本政府の支援で警察署や裁判所、学校や病院などの公共施設もできて市に昇格しました。
 加藤 お話をうかがって、開拓者としての苦闘を支えてきたものは、日本人古来の相互扶助と協同組合精神だということがよくわかりました。もう1つは日本人としての「日の丸を背負っている」プライドです。それらを含めた田岡大使の功績がパラグアイ政府に評価され、田岡さんの大使任命につながったと思います。
 ところでパラグアイへはドイツからの移住も多かったと聞きます。ドイツ系と日系の農協の違いをどう思いますか。
 田岡 私たちの地域には大きなドイツ系農協があり、4000〜5000人ほどの組合員がいます。彼らは永年作を主体にした営農でした。だから日本人が永年作物を倒して短期作の畑地にし、もうからないとすぐにやめてしまうのを見て笑っていました。
 しかし最終的には彼らも日本人に見習って畑地に切り替え、こうしてパラグアイの大豆生産は世界で第4位となりました。
 加藤 日本人の良さは勤勉です。そして誇りと気概をもって海外へ移住していった気迫がありました。何よりもみんなで苦境を乗り切っていこうという相互扶助の精神がありました。
 今はそういうものが失われてきたのではないかと思います。我々の特質は何だったのかをもう1度問い直さないといけないと思います。

◆日本人としての誇りを

 話は変わりますが、ブラジルでは大豆生産の損益分岐点は1000haといわれますが、この点についてはいかがですか。
 田岡 ブラジルやアルゼンチンでは大型機械化農家にとって1000haが必要です。ところがパラグアイの日系人農家では平均が300haです。そこで今、農機をどんどん大型化し、それに見合った経営面積を目指しています。
 加藤 日本の耕作放棄地の拡大をどう思いますか。
 田岡 耕作放棄地は約40万haとのことですが、これをどう解消していくのか。世界的な不況の中で農業に戻ろうとしている若い人が増えていくことを期待しています。
 加藤 農業にとっても経営資源はやはり人です。人づくりがいちばん重要です。
 田岡 若者が農村に残らないのは魅力がないからです。もう一度農村を見直せるような魅力が農業には必要です。
 魅力はやはり“利益”です。都会で働いたら月給30万円ほどがもらえるのに、農業では10万円か15万円です。これでは魅力がありません。
 政策的に都会の暮らしと同じような魅力のある農業を育てていかないと、年長者だけが農村に残されていきます。政府がいくら、いいことを並べ立てても実際に魅力がないと若者は農村に戻ってきません。
 加藤 最後に青年農業者へのメッセージをお願いします。
 田岡 農業は商売と違ってやり直しが利くと思います。いくら異常気象で不作になっても、国際相場がダメになっても、農地があり、体があればやり直しが利きます。私たちは翌年の作付けと収穫に期待をするという流れで農業を続けてきました。
 それが農業の良さだと思います。そういうことが感じられるような農協・組織・地域をつくっていくことが日本でも将来に向けた希望になるのではないかと思います。

 

対談を終えて

 忘れ去られた日本人の気質とは何かを思いおこした。人を思いやる気持ち・相互扶助の精神、困難に真正面から立ち向かう気迫と誇りは今どこにいったのか。日本の耕作放棄地の現状をどう見るか。かつて日本人が移住した見知らぬ国々で、ジャングルを開拓する困難と比較すると、言葉を失うものがある。今の若人にもこの気概はあると信じたい。
 パラグアイには日系とドイツ系の農協があり、日系の農協は大豆を中心とした耕種作目を、ドイツ系は果樹等の永年作目を推奨し、お互いに切磋琢磨したとのこと。早く結果を求める日本人、輪作体系等、数年間で結果を考えるドイツ人、この気質の違いと、国民の二割が協同組合員であるドイツとは相互扶助の精神と農村気質に共通項があり興味深い。
 今後、田岡大使がパラグアイ・日本両国の懸け橋となって、両国の農協が協力し、農協の底力を内外に示せればと思う。(加藤)

(2009.02.27)