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特別対談
國弘正雄氏――加藤一郎氏対談

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「飢餓世代からのメッセージ」 國弘正雄氏、加藤一郎氏 特別対談 (前編)

「イモの葉まで食べた」あの体験を語り継ぎたい
米国農業の歴史に学ぶ 「土、すべてそこから創まる」

「食べ物は命そのもの。それを粗末にし、ムダにすることは自分の命、ひいては他人の命をも大事にしないことになる」と國弘さん。飢餓に苦しんだ戦中戦後の原体験を、若い世代に向けて積極的に伝えるようにしているという。そして迫りくる食料危機に警鐘を鳴らし、日本農業にエールを贈った。また、加藤専務は1920年代からの米国の農業と農業政策の歴史をたどるとともに、政治家の先見性やリーダーシップに目を向け、話題は食料自給率や環境保全政策などに及んだ。

「イモの葉まで食べた」あの体験を語り継ぎたい
米国農業の歴史に学ぶ 「土、すべてそこから創まる」

◆英語テキストの謎

英国エディンバラ大学特任客員教授 國弘正雄氏 加藤 先生は最近『烈士暮年に、壮心已まずー國弘正雄の軌跡』(たちばな出版)という回想録を著されました。これは三国志の曹操の言葉ですね。
 國弘 そうです。
 加藤 先生の軌跡にふさわしい言葉だと思います。
 先生には5つの顔があるといわれます。
 1つ目は同時通訳の神様という顔です。1969年にアポロ11号の月面着陸の模様を同時通訳されました。
 2つ目は70年代に日本テレビ系列で活躍されたニュース・キャスターとしての顔です。
 3つ目は三木武夫首相の秘書官と、護憲リベラル派の参議院議員の顔です。
 4つ目は日米比較文化論などの大学教授の顔で、今は英国エディンバラ大学特任客員教授です。
 5つ目はニクソン米国大統領や歴史家のトインビーさんらに対する優れたインタビュアー・歴史の語り部としての顔です。
 でも、私は世間に余り知られていない6つ目の顔があると思っています。それは日本農業に対する熱いサポーターとしての顔です。先生は食糧問題を非常に重視されています。
 國弘 丁寧なご紹介ありがとうございます。
 加藤 私は20代の時、英会話の勉強に時間とお金がなかったものですから、テレビやラジオの英会話の放送講座で勉強をしていました。その時の國弘先生の英会話のテキストのテーマが農業・食糧でした。
 なぜ、農業問題をテーマにされたのか私にはわからなかったのですが、その後、先生とある機会をきっかけに、お知り合いになり謎が解けました。
 先生のお話によると、ラジオやテレビの英会話講座のリスナーはほとんどが若い女性であり、やがて子育てをし、食育を担う、だから食糧の重要性を伝えたかったのだとのことでした。
 國弘 勝手なことをいったようですな(笑い)。
 加藤 先生は戦中戦後の“飢餓世代”で、食べ物を粗末にしないという思いが強い世代です。“食べ物の恨みは恐ろしい”といいますが、次世代へのメッセージとして、改めて食糧問題についてお話ください。

 

JA全農代表理事専務食べ物は命そのもの

 國弘 私は若い人たちとよく食事をしますが、飯を一粒でも残すと怒り出すので若い連中は「おごってくれるのは有難いが、國弘との会食はどうもしんどい」と敬遠もされます。食べ残しのひどい女性たちを怒鳴りつけたこともあります。
 食べ物は命そのものですよ。それを粗末にし、ムダにすることは自分の命、ひいては他人の命をも大事にしないことになります。
 私が育ったのは日中戦争、太平洋戦争そして沖縄、広島・長崎、敗戦と続く時代です。その悲惨を思い出すといつも涙がにじみます。
 みんな食べることにどんなに苦労したか。ご飯を食べるなんて望外の幸せでした。カボチャの代用食はよいほうで、サツマイモの葉や茎まで食べました。母親と一緒に埼玉や千葉の農家に買い出しに行った光景を今でも思いだします。だから食べ物を生産する営みに対してはただ合掌の思いです。そうした飢餓体験をできる限り若い世代に伝えています。
 私は毎年8月6日に広島、9日には長崎に必ずいきます。それはアメリカに原爆を投下させちゃったという心の痛みというか何かそんな思いがあるからです。
 それから私は戦後、アメリカに14年間いましたが、反米とは言わずとも、少なくとも非米です。オバマ大統領になったので今秋あたりはアメリカへ行こうかなと考えていますが、ブッシュ大統領の8年間は一切行きませんでした。
 父親のブッシュさんはよく知っていたのですが、ジュニア(の戦争政策)だけは絶対に許せなかったのです。私の考え方は非戦であり、不戦です。反戦という言葉は好みません。
 さて今の飽食の時代が世界的にいつまで続くか。私はいささか絶望的です。政治もひどいからです。私はアフリカなど世界の飢餓地帯を大体回っています。かつては、日本生産性本部のスタッフだった時に農業関係の調査チームに加わってアメリカの農村地帯も歩きました。

 


悲惨だった米国農業

 加藤 1950年代のことですね。その時に先生は「米国の力の源泉は農業」といわれています。それはどういうことからですか。
 國弘 米国も1928年ごろに大変な飢餓を経験しました。その話を農業関係者から直接聞いて回りました。その結果、豊かな経済力や強い軍事力を持つ米国でも当時の農業が悲惨だったと知り、どこの国でも農業問題がいかに大事であるかを痛感したのです。
 最近は米国が昔の苦い経験をまたくり返すのではないかとの悪い予感もしていたのですが、黒人大統領が出現しましたからね。米国には復元力があるんです。
 オバマさんはハワイ出身で私もハワイ大学出身なので何か縁を感じます。できればインタビューをして本を1冊まとめたいですね。オバマさんとの若干のコネはなくもないんです。
 加藤 先生はリン鉱石を積んだ貨物船でハワイへ行った話を書かれています。奇縁ですが、全農は肥料の原料となるリン鉱石の鉱山を米国のフロリダで買収して、採掘・精製・日本への輸出業務を開始しました。私も、その仕事で4年余りフロリダ州タンパに駐在しました。その時、私は先生と知り合いになりました。
 そこで私も米国農業の歴史を学びましたが、先生がおっしゃるように政治と農業は深く関わっています。
 さかのぼれば1929年の大恐慌のころ、米国の最大の環境問題は「土壌の崩壊」だったんですね。
 國弘 その通りです。
 加藤 作家スタインベックの『怒りの葡萄』の時代から、穀倉地帯を襲った大規模な砂塵(ダストボール)によって大平原が砂丘化し、その総被害面積は日本列島の面積を上回る4000万haに及んだといわれています。
 そこでフランクリン・ルーズベルト大統領はニューディール政策において「土の滅びは国の滅びである」「土、すべてそこから創(はじ)まる」として土壌保護局を新設し、土壌浸食問題に挑戦しました。

 

 

環境は輸入できない

 この政策は、土壌保全政策から環境保全政策へとつながり、不耕起栽培、休耕、輪作体系などに補助金を投入し、その予算規模は年間5000億円にのぼりました。こうして米国は小麦生産を確保していったのです。
 世界では70年代になると食料危機の予測が出て、各国が食料自給をしないと大変なことになるとの警鐘が鳴らされました。
 しかし日本では、いわゆる国際分業論で工業製品の輸出と食料の輸入を増やし続けました。ただ、一昨年からは資源高、穀物高で食料も高騰し、危機感が募りましたが、すでに自給率は大きく落ち込んでおります。
 國弘 40%程度になってしまいましたね。
 加藤 厳しい状況の中で先人の言葉を思い起こしますと、例えば先生と縁の深い三木さんは副総理と環境庁長官を兼務していた72年に「高度成長のもと、大蔵、通産、農林(3省)が経済第一主義になびくなか、環境保護の重要性に着目する」と述べています。
 食料は輸入できても環境は輸入できませんからね。三木さんの先見性とともに政治家のリーダーシップの重要性を痛感します。
 國弘 三木さんは「土の滅びは国の滅び」という言葉をよく引用し、私も何回となく聞かされました。地球上の生きとし生けるものの生存を可能にしている1つの条件を表した言葉です。
 三木という人は時代の先を読む能力というか気質を持っていたと思います。
 土壌崩壊についての見識は、若い時に米国農業の1つの中心地である南カリフォルニアにいたからだと私は憶測します。そこで農業に関わる可能性と問題点をつぶさに見たのでしよう。
 とくに日系人農家の家庭にいたので帰国後、政界で大物になった三木さんを訪ねてくる日系米人はほとんどが農業関係者でした。
 その中には農家出身で政治家や実業人、学究者などになったカリフォルニアでの著名人も多く、私は人材を輩出している同地の農業というものに対して、すごいなあなどとよく感心したものです。

 

後編につづく 

(2009.08.03)