特集

【第25回JA全国大会特集】 新たな協同の創造と農と共生の時代づくりをめざして
鼎談「新たな協同の創造と農と共生の時代づくりをめざして」(下)
宇沢弘文 東京大学名誉教授
内橋克人 経済評論家
梶井 功 東京農工大名誉教授

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【鼎談】 「転換」とは何か?「資本からの自由」「人間らしく生きる自由」を求めて(後編)  内橋氏・宇沢氏・梶井氏

「生存条件」と「生産条件」の両立を 日米FTAの背景を見ると…
・時の政権にこびる学者
・「幻想」と平成大恐慌
・手ぐすね引く米国側

 前回に引き続き「転換」の名にふさわしい転換のあり方を明らかにしながら政府の経済財政諮問会議の実情を指摘。次いで民主党の最初のマニフェストに日米FTA締結推進が出てきた問題に焦点を当て、続いて▽農村に生きることの価値▽生存条件と生産条件の両立▽「FEC自給圏」の形成▽「社会的有用労働」を担う協同組合の役割などへと議論は展開した。

時の政権にこびる学者


宇沢弘文 東京大学名誉教授宇沢 経済財政諮問会議のメンバーである経済学者らは、マクロ経済的な基準にしたがって医療費を抑制する、などと発言するのだから許せません。経済学者としての知識や志はどこへいったのか。一番大事な社会・経済の運営をどう考えているのかと問いたい。ケインズやベヴァリッジと比べて大変な違いです。
 あるところで記者のインタビューを受けて「権力の走狗になって政権に奉仕している姿を見ると、怒りをこえて悲しみを感じる」と語ったところ、記者は「経済財政諮問会議は米国を真似てつくったんですよ」といいましたが、これはとんでもない話です。
 米国の諮問会議は経済学者が中心で大統領や政治家が口を出してはいけないのです。ワシントンDCに住んでフルタイムで仕事をし、官僚が片手間に用意した資料などを並べたりしません。日本とは全く違います。
 しかし問題はありましてね。経済学者にもいろいろあって諮問会議のメンバーになると、どうしても時の政権にこびてしまう。
 米国では“学者を腐敗させることほど簡単なことはない。権力を持つポストにつければよい”といわれます(笑い)。
梶井 私は農政審議会にちょっと引っ張り出されたことがありますが、あのころは農林省や財界の意見に反対の論者が3分の1ほどは入っていた感じです。このごろはそういうふうではありませんね。
内橋 規制改革会議などの実態も経済財政諮問会議に劣らずひどかったです。
 ところで、共生経済についてですが、私は15年ほど前に岩波新書で「共生の大地」という著作をまとめました。当時日本の中に芽生えた第3の道といいますか、欧州にも米国にも、そして足許の日本にも芽生えつつあった確かな希望を最新の時点で紹介しました。
 それが大学入試とかテキストに最近もまだ使われ、許諾を求めてくるので改めて読み返しているところです。共生経済という概念はその後、最近のラテンアメリカにおける「連帯経済」の胎動にも通じるところがあると、優れた専門家の方々に教えられました。フリードマンが「チリの奇跡」などと絶賛した経済成長の再検証、また財政破綻の悲惨に見舞われたアルゼンチンなどラテンアメリカの研究者たちです。むろん、私としましても、もう少し体系的に議論を深めていかないといけないと思っておりますが…。

 


「幻想」と平成大恐慌

 

梶井 功 東京農工大名誉教授宇沢 平成大恐慌につながる歴史的な文書があります。1つはローマ法王レオ一三世が1891年に出した「資本主義の弊害と社会主義の幻想」を副題とした回勅(ラテン語で『レールム・ノヴァルム』と呼ばれる)です。
 それは、産業革命以降、新しい工業都市で労働者や一般大衆、子どもたちの生活が悲惨を極めているのは資本家が自らの利益を貪欲に追求しているからだとし、その一方で、大勢の人たちは社会主義になれば問題は解決すると思っているが、それは大間違いで社会主義になれば人間としての存在自体が危ぶまれる。
 しかし、その後は社会主義国が増えました。私も学生のころは、長い間の人間の夢がこういう形で実現したのか、新しい時代が来た、という印象を強く持っていました。
 ところが、1960年代に東欧を訪ね、スターリンの独裁的な圧制に苦しむ人々を見てショックを受け、またソ連の社会主義建設が何百万人という人民の犠牲の上に成立したものだということなどを知って夢破れたという感じをもつようになりました。
 レオ一三世の回勅から100年後、ヨハネ・パウロ二世が新しい回勅をつくることになり、私は法王から、作成に参加してほしいという手紙をいただいた。
 私はすぐにお答えをし、新しい回勅の主題は「社会主義の弊害と資本主義の幻想」としたらどうかと提案しました。法王は大変喜ばれ、バチカンでしばらくお手伝いをしました。1991年に新しい回勅が出ましたが、この「資本主義の幻想」に十分に注意しなかったことが大恐慌につながったという感じがしています。
梶井 新しい転換の方向は、人間の自由を実現するような社会をつくることを目指すということですね。今回の総選挙も、その意識が明確であるかどうかはともかくとして、より人間的な社会へ向かいたいという思いが民主党の大勝になったと内橋先生は指摘されましたが、民主党はそういう期待に応えられるような内容の政策を持っているのかどうか、この点はどうでしようか。
 鳩山由紀夫首相は友愛の社会をつくっていくんだという文学的表現をしていますし、二酸化炭素の25%削減という具体的目標も打ち出して日本経団連から文句が出たりしています。

 


手ぐすね引く米国側

内橋克人 経済評論家宇沢 1891年のレールム・ノヴァルムの基調は友愛でした。人間が人間を搾取し、階級的に対立するといった状況を超えて今置かれている困難を克服するためには、みんなで協力すべきであるというのが回勅の結論でした。
 その後、カトリック系の労働運動が起こり、お互いが信頼し、助け合う友愛精神の運動が欧州で大きくなりました。日本の友愛会もその流れだったと思う。
 もう1つは協同組合が新しく発展していくという友愛の流れもあります。
梶井 そういうことは鳩山さんも知らないかもしれませんね。では内橋さん、民主党のマニュフェストについて、いかがですか。
内橋 もちろん政権交代は歴史の必然だと思います。期待もあり、圧倒的勝利への予測もいろんな機会に話してまいりました。
 ただ、問題はどうしてマニフェストに日米自由貿易協定(FTA)が出てきたかです。あとで言葉は変えられましたが、もともとは非常に稚拙な理解から出てきたのか、あるいは、もっと深い何かがあるのか、わかりませんね。民主党の小沢一郎幹事長は、日米FTAについて、やればいいんだ、あとは農家に戸別補償を出すなどして個々の農家を支えればよい、という二分論ですね。FTA、EPAに熱心な経済界の意思とも通底しています。
 こうした認識は現段階において米国農業の実態を正確に認識しているとはいい難い、きわめて表面的な自由化論に発しているのではないか、と気がかりです。
 今、米国では「ライスビジネス」つまり「コメビジネス」が大きな産業領域になりつつあります。
 カリフォルニア州にはIT先端技術のシリコンバレーの向こうを張ってコメビジネスのセンターを目指すサクラメントバレーがあり、オークランド港からはどんどんコメが世界中に輸出されています。コメだけではありません。日本酒もお得意中のお得意です。サクラメントバレーで栽培されるコメは170種類にものぼるといわれます。むろん、他の穀物生産と同じように大規模大量生産・企業農業の先端を走っている。
 輸出先は、FTA締結、またWTOの論理に則って市場を開放した国々です。台湾、中国はじめ東アジアの国と地域、日本食ブームの欧州にまで及び、輸出量もすでに相当量になっていると聞きました。まさに世界席巻をねらう「アメリカン・コメビジネス」です。コシヒカリ、ササニシキ、あきたこまち……、日本でつくっているものは何でもつくっている、と農業経営者たちは手ぐすね引いています。日米FTAによって何が現実になるのか、新政権には徹底した学習を、と望みたいところです。

 


ターミネーター技術


 米国はトウモロコシ、コメなど穀物そのものの輸出で世界を席巻しているだけでなく、ひろく農産物の「種子」でも覇権の獲得をねらっています。最近、優れた著作が出ておりまして、いま、世界の農業に何が起こっているのか、大いに啓発されました。安田節子さんの『自殺する種子―アグロバイオ企業が食を支配する』(平凡社新書、09/6刊)です。 
 安田さんはこの著作の中で「ターミネーター技術」について詳しく書いておられます。アメリカのアグロバイオ企業が開発する「自殺種子技術」のことですね。これは、「作物に実った二代目の種子には毒ができ、自殺してしまうようにする技術」で、この技術を(作物の)種子に施して売れば、その種子を買った農家が栽培して収穫できるのは1回限り。以後は種子の自家採取ができなくなり、次の年も、また次の年も企業から種子を新たに買わなければならない、そうなるように遺伝子操作を施した種子ということです。ターミネーターというのは、そこで終着駅にさせる、終わりにさせるもの、そういう意味ですね。専門的には「植物遺伝子の発現抑制技術」と呼ばれるそうです。
 安田さんによりますと、「この技術は、米国農務省と綿花種子最大手デルタ&バインランド社(その後、モンサントが買収)が共同開発して、1998年3月に米国特許を取得し」、つづいてデュポン社はじめ大手2社が米国特許をとっているという。
 生命は永遠に循環する、それが大自然であり農業というものでしょう。その生命循環を断ち切る技術の開発、そして特許の確立によって、いったいだれが利益を独り占めすることになるのか。「種子」そのものの意味を否定する技術の誕生によって、何が始まろうとしているのか。決然たる批判的認識がたいせつです。現実はここまできているということをしっかり認識したうえで、あらゆる農業交渉に臨んで欲しいですね。
 遺伝子組み換え技術も含めて、世界の生物・植物の遺伝子バンク、壮大なアーカイブ(貯蔵庫)をアメリカに築き、知的所有権でもって世界を制覇する。農業に限らない、あらゆる産業を知的所有権を介してアンダー・コントロール(制御下)に置くというアメリカ資本の世界戦略の一環としてとらえるべきでしょう。WTOでもどこでも、近年、アメリカが「知的所有権」を前面に押し立ててルール化を強く各国に迫っているのも、こうした背景事情があるからです。

 


小沢式「遠謀」に危うさ

 

 飼料穀物からGM(遺伝子組換)、肥料、そして種子へ、とアメリカ主導の農業インテグレーション(垂直統合)の世界化が進みつつある。そうした厳しい現実の認識が日本の新しい政権にあるのかどうか。自動車、電機を買ってもらい、代わりに農産物の輸入自由化を、などという次元の話ではもはやありません。もともと日米FTAは日本経団連の長らくの悲願でした。前回、話しましたような小沢一郎式「二分論」の深慮遠謀にあやうさを感じるのは私だけしょうか。
 アメリカでは、GDPに占める農業全体の割合がどんどん小さくなる中で、ビジネスとしての企業農業はコメビジネスに力を入れて日本への輸出を虎視眈々と狙っています。「知的所有権」による世界制御というアメリカの戦略に疎いFTA、EPA論議は、もう時代遅れということですね。
 今回選挙で、民主党を勝利させた民意の中には「脱官僚」だけでなく「脱経団連」「脱経済権力」があったと思います。その経済団体の主張と民主党の政策が日米FTAでは同じであるということに私は驚かされました。この問題では論理的にも現実的にもいち早く警鐘を鳴らすことがたいせつです。
 FTAによる大きな失敗例につきましては、本紙で以前にも触れたとおりです。カナダ、メキシコ、アメリカが結んだ北米自由貿易協定(NAFTA)がメキシコに何をもたらしたか。NAFTAにはオバマ大統領も批判的立場です。
 かつて例の規制改革会議では郵政民営化の次は全農の解体だ、という議論が浮上しておりました。私は自民政権より民主新政権のほうが、政治の次元では確かに高くなったとは思いますが、しかし、その中には、あれこれ、稚拙な政策矛盾もないわけではない。現実政策においてはなお要警戒ではないでしょうか。
 これまで自民党に依拠してネコの目農政を迫られてきた農業の立場として、WTO交渉の新ラウンドが迫っている今、しっかりと腹を据えて対抗思潮を生み出し、盛り上げていく必要があります。

 


貿易構造を見きわめて

 

 ついでに付け加えさせて頂きますと、たとえば、世界の貿易構造をよく見きわめることも課題ですね。今行われている交易は、超国家企業と超国家企業の間の取引が3分の1、次に超国家企業内の取引が3分の1、いわゆる国際交易とか、国際協調を支えている、本来の貿易は残りのわずか3分の1ほどに過ぎない。WTO交渉、二国間協定などの交渉においても、世界で行われている交易の現実というものをしっかりととらえ、ラウンドが本格的に動き出す前に手を打っておくことがたいせつなのです。韓米FTAにしても、農民の抵抗が強く、いまだ実行には至っておりませんね。
梶井 WTO交渉それ自体も、今までの流れでいったらうまくないですね。途上国の食料問題を国連が問題にしていますしね。
内橋 米国が本当に変わろうとしているのであれば、WTOとかIMFとか世銀とか、いわゆるワシントンコンセンサスそのものの枠組みをオバマ大統領は変えていかざるを得ないと思いますが、残念なことに早くも医療改革でつまづいています。医療保険の制度改革では所得再分配、つまり富裕層への増税によって医療改革の財源を確保するというものですが、いま、メディケア(高齢者医療保険。貧困層はメディケイド)の質的低下をもたらす、などという反対論が急速にひろがり、その背後で民間保険会社が国民を扇って改革反対の世論を盛り上げる、という構図も浮き彫りになってきました。
宇沢 公的医療の導入は少し長い目で見る必要があるのでしようね。
内橋 協同組合方式にするとかの妥協案がアメリカでは唱えられ始めましたが…。
宇沢 私は今まで数多くの友人と出会いましたが、農村やその周辺で育った人たちと都会で育った人たちは、人間的な重みが違います。農村部出身者のほうが人間的に重いのです。農業者でなくても農村社会の中で育っていく意味は大きいと思います。
 戦後の日本では、その農村を解体して、若い人たちが都会や工業部門で働くことをよしとするような考え方が支配的になりました。
 その象徴が中学卒業生の集団就職です。金の卵などともてはやしましてね。あれが今の農村の壊滅的状況をつくり出したのだと思います。それ以後、農に生きることを価値のないものと蔑視する風潮になりました。それはパックスアメリカーナの陰謀だったかなとも思います。
 農村は日本社会の歴史と文化を支えるコアになっていたわけですが、そこから中学卒業生を引き抜いて都会に投げ込んだのです。日本の農村を破壊してきた政策の意味は大きいと思います。
内橋 結局は多元的な経済社会を否定してきたわけですね。農業あり工業ありサービスもあるというバランスのとれた均衡ある国家にはなり得なかったということでしょうか。

 

多元的な経済社会築く


宇沢 社会的共通資本という大事なものをいかに守るか、その中心はやはり農村でした。しかし農村で生きることは難しい。若者は限定された村落で育ち、仕事はきつく、収入は安定しない。これでは農村で生きることを若者に勧めることはできません。
 そこで政府にやってほしいのは、農村に生きるということは経済的にも社会的にも文化的にも最高の価値があることなのだ、といえるような条件をつくっていくことです。それは市場原理主義の分業と真っ向から対立することです。
梶井 民主党は先の国会に農山漁村再生法案を出して参議院で審議しましたが、中身には食料・農業・農村基本法と対立するところがあります。
 今のお話のように、農山漁村に住んで生活できるようにしようじゃないかというのが民主党案の骨子ですから、基本法がベースに据えている構造政策とはかなり違った面があります。
内橋 転換という名にふさわしいあり方はまさにそれをやり抜くということでしょう。多元的な経済社会、均衡ある国家を築く、そういう方向に向けての転換でなければなりません。
 たとえば工業や第3次産業について考えてみますと、そこには大別して、生産の効率をよくしていく、生産性を上げる、それに貢献するという「生産条件」と、もう一つ、生きてゆく人間の社会的基盤、つまり「生存条件」という二つがあります。もともとこの二つの条件によってマクロ経済は成り立っているわけですね。経済発展の第一段階では、とにかく生産条件を良くしさえすれば生存条件も良くなった。貧しく飢えていた時代、あるいは原初的な時代がそうです。ですが、やがて時代と社会は第二の段階へと進む。たとえば経済の高度成長のもとで、とにかく生産条件を良くすることにすべてを集中していると、今度は生存条件との間に摩擦が起き始めた。ついには第三の段階へ。つまり二つの条件があい矛盾する時代です。生産条件を良くすると、逆に生存条件は阻害されてしまうという、そういう時代が、いま私たちの生きる現代です。地球環境問題を考えただけで瞭然でしょう。
 この第三の発展段階で私たちは厳しい選択を迫られている。生産条件を良くすれば、人間の生存条件も良くなる、そういう新たな産業構造とは何なのか。両者が矛盾するのでなく、両立するあり方をこそ理念として掲げ、あるべき仕組みを考え出していかなければなりません。そういうせっぱ詰まった段階に私たちは生きているのです。

 


「FEC自給圏」形成を


 では、生産条件を良くすれば、およそ生あるものの生存条件も良くなる、という産業のあり方とは何か。
 この問題に対する「解」の一つが、私なりに提唱してきた「FEC自給圏」の形成という概念です。Fはフーズで食料、Eはエネルギー、Cはケアで介護、医療、教育を含む広い意味での人間関係です。FEC(フェック)を新たな基幹産業として立ち上げていく。雇用の創造も可能になる。先のG20サミットでも世界経済の不均衡是正という課題を首脳宣言として採択しましたが、オバマ大統領のアメリカ自身すでにはやく日本、中国など各国に内需拡大策を求めてきましたね。内需という国内需要だけでなく供給と需要の両方の自立を含む、まったく新しい産業の構造を築くほかに答えはないでしょう。
 セーフティネットという言葉がよく使われますが、セーフティネットを整えさえすれば、資本は何をしてもよいのか。そんなことはないでしょう。セーフティネットがなくとも人間の生存条件は揺るぎなく守られている、そういう社会こそが人の世の理念です。
 こうした自給圏の形成論を保護主義だとか、経済のブロック化だとか、戦争になるぞ、とか、そんな脅しはもうたくさんです。過剰な外需依存の体質が何を生み出したか。今回危機で日本人は今こそ賢く悟らなければならないと思います。
 今回の世界経済危機のなかでも、たとえばヨーロッパなどの市民、勤労者は日本のようにドラスチックなマイナス影響は受けておりません。
 例えば失業保険ですが、フランスの保険金給付は3年間、それが切れると、真面目に職を求め続けている限り連帯手当が出ます。社会全体で失業者の生活を支えていきましようというわけですね。ドイツの給付期間は2年ですが、給付が切れた後は住居費の支援があります。イギリスでもサッチャー首相が社会保障をすべてなくしてしまったわけではなくて、チャイルド・ベネフィット(児童手当)とか住宅支援給付とか、基本的なところは、きちんと残しておりました。
 ところが、いま、日本では失業保険給付を受けることのできない失業者が78%もいます。ILOの調査です。働く能力も必要も意思もあるのに仕事がなく失業保険ももらえない。
 そういう人はブラジルで90%以上、中国で80%、その次が日本です。フランスとドイツは10%程度、アメリカは50%程度となっています。
 日本がいかに人間の生存条件をきちんと整備しないままに新自由主義を受け入れてしまったか、よくわかります。私は「圧縮された新自由主義」といっているのですが……。

 


悪くなった官僚の質

 

 労働の流動化だとか「働き方の多様化」などと叫んで、その実「働かせ方」の多様化を先導してきた労働経済学者が大手を振ってきました。ホワイトカラー・エクゼンプションの制度化とか、労働の流動化などと、経団連の利害をそっくり代弁して労働の市場化を精一杯煽ってきた連中ですね。
梶井 せっかくつくった労働法なんかでも改悪しちゃうんですからね。
内橋 政府の労働審議会の場で持論を唱えて、逆に、時の大臣からいさめられ、説教されたという、そういう恥ずかしい労働経済学者が、規制改革会議、さらに経済財政諮問会議のメンバーになりましたね。まあ、その人物はそれだけ旧政権、そして財界への奉仕度においてたいへんな功労者であったということでしょう。
梶井 協同組合についてはいかがでしようか。運動の方向とか、考え方のポイントなどについて協同組合運動に望むということで一言。
宇沢 『レールム・ノヴァルム』の結論は、協同的な営為を中心とすべきだということでした。
 それで協同組合運動とか新しいタイプの労働組合運動が起こっていき、北欧なんかで非常に大きな影響力を持ちます。
 日本の場合も協同組合的な運動をもう少し大きなスケールで展開できればよいと思います。
 また官僚がそれをコントロールするのでなく、それぞれの地域がきめのこまかい形で関与していくことが大事ですね。今の日本の大きな問題は、中央官庁の官僚があらゆる面で国の政策のほとんどを決定していることです。その官僚の質がパックスアメリカーナの下で徹底的に悪くなってきています。
 先ほどから学者の話が出ておりますので、ここで大学のことに触れますと、今の日本の大学ほどみじめなパフォーマンスの大学はありません。
 大学はもともと政治的、社会的な圧力を跳ね返して、祖先が築いてきた社会と文化、学問を次の世代に伝えるというノーブルな仕事をしているわけです。
 それがある政治的な動機なりで官僚的に支配されるということほど悲惨なことはありません。
 例えば大学法人になって予算配分や副学長の天下りなど大学は文部官僚の意のままです。その象徴が共通一次に始まって官僚的な基準で行われている入学試験です。

 


「社会的有用労働」とは

 

 大学で大事なのは学生と教師を選ぶ人事権ですが、その2つともが骨抜きになってしまっています。そういう大学が一般的であるという国は社会主義の国以外、世界にありません。これでは大学が持っている本来の自主的な機能が果たせません。
 以前に文部省は各大学の農学部という名前を変えようとしました。
 農という言葉自体に重い意味があるのですが、それを無視して生物資源学部とか生物生産学部とかに変えようとしたのです。あの時は梶井先生らが中心になって食い止めました。
 大学の話ではありませんが、文部官僚は数10億円をかけて学力テストを実施しています。あれもまた悲惨な話です。
 教育の原点は絶対に点数をつけてはいけないのです。点数で比較してはいけません。それを国家的なレベルで強行したのは中山成彬文相でした。
梶井 今度落選しました。
宇沢 今度の選挙で良かったのはヘンな人は2、3人を残して全部落選したことです(笑い)。
梶井 大学だけでなく、農協も官僚支配がだんだん強くなっています。
 その問題は別として、内橋さんは関西学院大学の神野直彦教授との対談で「新たな協同」として「協同の協同」「使命共同体」ということを語っておられました。改めて目指すべき協同についてお話下さい。
内橋 人が人らしく生きられる社会、人間が人間として生きていける社会をどう築いていくのか。政治、政権、国家のあり方が厳しく問われる時代が来ていると思います。
 人が人らしく生きられる社会とは、何よりもまず物理的に安全であり、危険がないということが基本ですが、次に自立した人間として生き方の選択が自由であること、そして社会的排除がないという三つの条件がたいせつです。
 さらに重要なことは「社会的有用労働」というとらえ方ではないでしょうか。「社会が必要としている労働」「社会に役立つ労働」をどう満たすのか、そういう視点ですね。
 労働には量的に需給がマッチしない、つまりは失業という問題があります。
 しかし、問題はもう1つ、仕事はあるけれども自分の生きがい、働きがいに結びつかない、食べるためにやむなく働いているという、いわば「満たされざる労働」という側面があるわけです。

 

「企業一元支配」は限界

 

 けれども、さらに労働のミスマッチということでは、もっと重要な側面があります。それが「社会が必要としている、にもかかわらず、そこにきちんと労働が提供されていない」という問題です。
 この「社会的有用労働」は日本では絶えずミスマッチングの状態。いつも不足という社会的ミスマッチングが常態なんですね。介護にしても医療にしても人間の生命にかかわるもっともたいせつな領域で根源的に労働が不足している。
 協同組合やNPO、社会的事業などがその分野を担い「私たちは社会的有用労働を担っている」という使命感を持って取り組む。そういう使命感を共有できる協同組合やNPO、社会的事業こそが「使命共同体」です。たいせつなことは生きがい働きがいにおいても、さらに報酬においても「酬われる労働」でなければならない、ということです。
 これからの時代、そういう共通の使命感を持った組織が大きなセクターになっていかないと、今のように企業一元支配社会では政治的にも社会的にももはや限界だと思います。こうした考え方をどう現実化していくのか。そこで協同組合が先頭切って立ち上げていく、そういう進め方が期待されているわけですね。
 新しい働き方を考え、人が人らしく生きていける社会システムをしっかりとつくり上げ、労働の担い手が「正当な報酬」を手にできる、そうした「食える使命共同体」をいかに育てていくのか。いろいろな取り組みが考えられます。
 スウェーデンあたりだと就業者のおよそ40%が国内の福祉関係の仕事に従事しているとされます。介護その他、ケア、つまり人間を対象とする産業ですね。
 それと関連して、注目しなければならない指標があります。例の交易損失。2008年、日本の交易損失はGDPの約5%に達した。輸入に仰ぐ原材料の価格は上がったのに、輸出する自動車や電機製品の価格は下がる。その差が交易損失ですが、これは海外への所得の流出ですね。日本人が国内でいくら勤勉に働いても働いても、いや働けば働くほど、酬われなくなるという構造です。日本の過剰な輸出依存の構造とはこういうことなんです。
 では、アメリカやEUはどうなのか。アメリカはGDPのわずかに0.8%、EUなどはその半分の0.4%。交易条件に関する限り、国内、域内で均衡がとれているわけです。ちょうど逆の構造の日本だから世界経済危機の衝撃をモロに被った。この構造をそのままに「上げ潮路線」(自民党内の一派)などと叫ぶこと自体、矛盾ではないですか。

 


■地域支える協同組合へ

 

内橋 本紙での、先の神野先生との対談では島根県雲南市の地域起こしが話題になりました。旧瑞穂町ですね。数年前から私はNHK教育TVの「人間講座」などで「共生経済が始まる」と題して、あるいは他の機会に幾度か、この町のあり方を紹介してきました。当時の澤田隆之さんという町長さんが立派でしたね。独得の知恵でもって過疎化に歯止めをかけた。終の棲家(ついのすみか)というか、瑞穂にくれば老後も安心ですよ、という全国へのメッセージの発信まで発展していかれた。
 厳しい条件の中山間地域に人間ケアのセンターをつくり、人口流出を止め、地域経済を活性化させたモデルです。FEC自給圏のCを達成することで地域の自立が実現しました。
 澤田さんは地域の人びとに「源流に生きる誇りを!」と呼びかけ、次にフランスのエコ・ミューゼに習って地域全体をエコ・ミュージアム(エコ博物館)にしようと。かつては公共工事の邪魔になっていた天然記念物のオオサンショウウオですが、それを逆手にとって「オオサンショウウオの生きる町」と胸を張り、やがて介護のモデル事業へ、と行き着いて、過疎化に歯止めをかけた。
 合併して雲南市となりましたが、その合併でも単に財政事情優先ではなく、地域、地域の特産の果実を生かして町をつなげば、「フルーツ街道」ができ上がる、そういうように相手先を選択された。地域に湧き出る水が右に流れると日本海、反対側に流れると瀬戸内海、つまりは「源流の町」ということです。
 こうした地域では介護ひとつ、負担ではなく、地域の自立を達成する最高の事業だと。人が人に対してきちんと対応していく。そのようなあり方は決して経済の足を引っ張るのではなく、逆に経済とか産業の足腰を強くし、自立へ向けて踏み出すことができる、そういう考え方ですね。
 ですからFとEとCの一定の地域内での自給圏形成という方向性志向性がいかにたいせつか。めざすべき針路においても協同組合は先頭に立てると思います。
 協同組合にとってメンバーシップも大事かも知れませんが、地域全体を支えていく協同組合という考え方がもっとたいせつではないでしょうか。先に本紙で紹介しました「JAあづみ」(長野県安曇市)など、たいへんに貴重な先行モデルだと思いますね。
梶井 そういう方向を目指して地域の中で協同組合運動を仕組んでいくということになると、今の正組合員と准組合員に分ける制度も考え直す必要がありますね。農協法を改正したほうが良いと思います。

(前編はコチラから


 

鼎談 「転換」とは何か?

インタビューを終えて

 「大転換期」の内実は、“日本の無条件降伏を一つの契機として”構築されたパックス・アメリカーナの崩壊であり、“人間の生き様はただもうけることにあり、そのためには倫理的・社会的制約は無視して”いいとする新自由主義・市場原理主義の破綻だ、と両先生は強調された。
 その認識から、これからの社会の向かうべき方向として“真の「人間の自由」に向けた転換”が出てくるが、“そこで大きな役割を果たすのが協同組合”だと内橋先生は指摘する。
 ローマ法皇の回勅“レールム・ノヴァルムの結論は、協同的な営為を中心とすべきだということ”だったという。25回JA大会議案が強調している「新しい協同」も、“人が人らしく生きられる社会”を目指しての「協同」の創造であってこそ、「大転換期」にふさわしい「協同」になれるし、世界史的意義をもった運動になれるということである。「協同」の意味を、更に深く考えようではないか。(梶井)

(2009.10.09)