特集

【第56回JA全国女性大会特集】地域といのちと暮らしを守ろう 女性たちの力で
対談 女優 真屋順子さん--作家・評論家 吉武輝子さん

一覧に戻る

【特別対談】"人生百年"時代 「命」と「勇気」がキーワード  女優 真屋順子さん--吉武輝子さん

・都会の舞台に憧れて
・名付け親との出会い
・病室で学んだこと
・ハードルを高くして
・10年越しのプレゼント

 舞台やテレビで女優として活躍し、高視聴率番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』で演じたお母さん役の印象が強い真屋さんは、昨年7月、夫で俳優の高津住男さんを亡くした。悲しみの日々の中、生きることに「勇気」を持つこと―その大切さを知ったという。
 「命」と「勇気」がキーワードとなった対談では、自身の気持ちの変化に触れながら、希望をもって前向きに生きることへの意思を語った。

夢を叶えてくれた夫の言葉
 「白いキャンバス」胸に…

 

◆都会の舞台に憧れて


女優 真屋順子さん 吉武 真屋さんの故郷は大分県の日田市ですよね。福岡で仕事があったときに日田に泊まったけれど、人柄を良くするほんとにいいところよね。のんびりだけど品のあるところが真屋さんの性格に反映している気がするの。
 真屋 でも小さい頃はのんびりがいやで…高校2年まで過ごしましたが、日田を離れてみていいところだって思いましたね。
 吉武 それからどうしてSKD(松竹歌劇団)に入ったの?
 真屋 叔母が師匠だったこともあって日本舞踊をやっていたんです。その叔母にしょっちゅうSKDや宝塚を観に東京や大阪に連れて行ってもらいました。あと、あのころは地方都市にはお芝居がやってくることがなかったので、福岡までわざわざレビューを観にいくんです。そうやって育ったせいか、芸能界に憧れていました。当時は静か過ぎる日田の町でこの先どうなるんだろうという思いもあって、東京で何か勉強しようと思いSKDを受けたら通ったんです。
 吉武 私もね、17歳くらいのときに宝塚を受けたくて家出したら駅で捕まっちゃったの。父が私の行動に気付いたみたいで駅に先回りしていてそこで御用。
 真屋 まぁ信じられない(笑い)。でも当時はみんなの憧れでしたものね。
 吉武 ご両親は反対しなかった?
 真屋 父はもうそのとき第二次世界大戦で戦死していましたし、そのまま嫁ぎ先で耐えている母をみて、早く独立しようと思いました。なんとか手に職をと思ったけれど、踊りでは師範にならない限り何にもなりませんから、叔母のつてで東京の師匠に預けられて、そこでお稽古していただきました。

 

◆名付け親との出会い


 吉武 そのあとでSKDを受けられたわけですね。SKDは卒業なさったの?
 真屋 学校は卒業しました。舞台には立ったけれど、チビちゃんだったから子役しか役が付かなくて退屈になっちゃって。それで新劇ブームという風潮のなかで、劇団「雲」に入り、芸名の名付け親でもある俳優の芥川比呂志さんに出会いました。私を楽屋に置いてくださったり地方にも連れて行ってくださったりしてひいきにしてくれました。
 吉武 でもいい名前よねぇ。
 真屋 平安時代の「催馬楽(さいばら)」という古代歌謡からとったそうです。東屋(あずまや)で女の人が恋人を待っている恋歌なのですが、当時は意味が深く分からなかった。みんなに一生大事にしなければ駄目よといわれ、いつもそう思っています。芥川さんがお芝居を何ひとつ知らなかった私の初めての師匠ですから…面白い出会いです。
 吉武 不思議な出会いよねぇ。そして「雲」からは?
 真屋 それから芝居の道に入りました。
 吉武 高津さんとはどこで?
 真屋 「まぼろしの邪馬台国」というテレビでの共演がきっかけです。
 吉武 高津さんと何年くらい一緒だったの?
 真屋 41年目にして永遠の別れをしました。別れというのはすさまじい悲しみですね。
 吉武 そうですねぇ。私は9年前に夫を亡くしましたが、高津さんと真屋さんのようないい関係がつくれなくってね。昼夜逆転の生活をしていたので一つ屋根の下で別居結婚みたいなね。夜、物書きをしていると2階から食べ物のにおいがしたりすると、気にさわっていたけれど、死なれてしまうと何の音もにおいもしなくなっちゃう。死ぬってことはすべてが「無」になることなのだと思い知らされたの。

 

◆病室で学んだこと


 それからは夜の散歩をしなくちゃ眠れなくなっちゃって。そのことを娘に話したら「世間の人はそれを徘徊というのよ」と笑われました。あるときその言葉を思い出して、人の死を悼むということは、生きている私が伸びやかに生きることなんだなぁと、そこでわかったの。真屋さんを見ているとそのことが自然に身についていらっしゃると思います。
 真屋 そうみえるでしょ。隠しているんですよ。悲しみはきりがないものです。でも病室で読んでいた吉武先生の本に励まされたんです。本の中で光り輝く言葉を見つけてから生きる希望をいただきました。主人が亡くなることは特別なことなんだと思っていましたが、そうじゃなく普通のことだと思えるようになりました。
 そして同じ病室の方とお友達になったり、リンゴを半分ずつ分け合ったり、医療の現場を知ったり…体を癒すことだけでなく、病院生活のなかでいろいろ学びました。看護士が足りないという医療の問題も実際に自分が入院してわかったことです。とても社会勉強になりました。
 吉武 昔は人生50年で、そのときは「元気に生きてコロリと死ぬ」という願望が叶えられたけれど、今は人生100年。どうしても病みながら老いていくという時代になってきたのよね。
 真屋 本当に。家庭でも病院でもそうですよね。
 吉武 私はここ30年、病気のデパートのオーナーをやっているんです。今年もオーナーが発注していない新商品が納入されてきてね。私は病気をいっぱい持っていますが「病気にはなるけど病人にはならない」を社是にしているんです。社是の何カ条かに「おしゃれをすること」があるけど、「泣くこと」も大切なんだと思うの。だんだん素直に「泣く」ということができなくなっている。でも自分の思いを涙で流すと、疲れてストンと眠れちゃうの。そうして朝起きると痛みや恨みといったすべてが洗い流されています。

 

◆ハードルを高くして


 あともうひとつは「ちょっと無理かな…」と思ってもそれをやってのけること。ハードルを高くしないと駄目なんだなと思います。
 真屋 人間って最後の最後まで何かをしないといけないんですよね。病院生活のなかでそう思いました。もう少し寝ていたい、なんて思う日もありましたが、病人にならないようにリハビリ施設で毎日歩いていました。
 吉武 じゃあ病人にならなかったんだ。
 真屋 無意識のうちに自分を病人にしなかったことがよかったんだと思います。
 吉武 私はね、退院するときにものすごいおしゃれをするの。そうすると拍手で見送ってくれてね。病気の優等生になった気持ちで翌日から元気になるのね。
 真屋 おしゃれは先生のこだわりですね。生きるためのことですもんね。
 吉武 「劇団 樹間舎」はいつ立ち上げたのですか?
 真屋 1980年です。私は10年前に脳内出血で倒れてから舞台に立つのは失礼だと思い、離れていましたが、主人が車椅子でもできる芝居を書いて説得してくれました。
 吉武 倒れたのは司会をしている最中ですよね。
 真屋 静岡の浜岡での舞台の休憩中でした。榛原総合病院に運ばれましたが、1月8日の誕生日にあわせて息子が迎えに来てくれて東京に戻りました。
 吉武 ほんとにいい親子関係よね。私にも娘がいて、25年前に独立して離れて暮らすようになってから、他人との人間関係に通ずる適度な距離感や礼儀というものが築けたおかげで今でもいい関係が続いているの。お二人を見ていてもそう思うわ。
 真屋 そうですね。つくづく不思議だなと思います。息子というよりも他人というような感じですが深い関係です。
 吉武 選べない血のつながりじゃなくて選べる関係なんだもの。
 真屋 そう言っていただけると自信が持てます。

 

◆10年越しのプレゼント


 吉武 真屋さんは「出雲の阿国」を演じられましたよね?
 真屋 役者になってからずっと舞台の上で日本舞踊を活かしたいと思っていました。そんなころ、有吉佐和子さんの小説に出会い「これしかない」と思いました。歌舞伎をみたりして思いを募らせながら、主人に書いてほしいとお願いしました。資料もないなかで、10年くらいかかって書いてもらい、その夢が58歳のころ実現しました。
 吉武 高津さんはほんとにいい贈り物をしてくださいましたねぇ。
 真屋 ものすごいプレゼントです。主人が残したものといえば戯曲47、8本と猫3匹だけなんですけれど。
 吉武 その戯曲の財産は大きいですね。これから舞台をおやりになるご予定は?
 真屋 おととしやりましたが今年はまだ空白状態です。劇団員もまだ放心状態で。「出雲の阿国」をやりたいといった私の一言を、数十年後に実現させてくれたことだけで十分だと思っています。
 吉武 でももう一回やりましょうね。これは命と勇気の大きな表現だと思うの。命と勇気を燃やしながら生きていくひとつの象徴として、もう一度真屋さんには「出雲の阿国」を演じてほしいなぁと思います。
 それから真屋さんといえば『欽ちゃんのどこまでやるの!?』ですね。テレビで観ていました。お母さん役の真屋さんは悪乗りしないで、すごく気品があった。真屋さんが扇の要だったと思うわ。
 真屋 ありがとうございます。初めてテレビでの大役で戸惑っていた私に、主人がいつも「白いキャンバスでいろよ」と言ってくれていました。その言葉が未だに忘れられません。
 吉武 その言葉は命のありようの根源ですね。
 真屋 そうですね。人を偏見の目で見ないこととか仕事以外の何に対してもそうです。その意味が今になってじわーっとわかってきました。
 吉武 素晴らしい言葉ね。JAの女の人たちのように不況や天候に左右されながらも育み、育てていくには命を大切にし、それに対する勇気を持たないといけませんね。真屋さんの生き方そのものだと思いました。


PROFILE
まや・じゅんこ
1942年生まれ。大分県日田市出身。高校中退後、SKD(松竹歌劇団)に入団。卒業後は劇団「雲」に入り、舞台や映画、テレビドラマなどで活躍した。80年には夫で俳優の故高津住男さんと「劇団樹間舎」を設立した。

 


対談を終えて

 クミコさんとは神楽坂合唱団のお仲間だった。誰に対しても目線が平らで一切媚のないクミコさんの存在のありように魂をわしづかみにされ、その上に歌うように語り、語るように歌う、まさに歌の真髄を極めた歌い方に魅了され、クミコおっかけの一人と相成っていた。
 紅白歌合戦に出場と決まった後、ちやほやするメディアにむかっと腹をたてているわたくしがいた。「前から抜群の歌唱力なのに何さ」というわたくしに、「何にも変わらない」とクミコはさわやかに言った。紅白歌合戦の翌年は静かに過ごしたいとも言った、自らを律して生きることのできるクミコさんに、さらに魅かれていた。
 真屋順子さんとは初めての出会いだったが、こびずへつらわず、車いすに乗った背中ののばし方にクミコと相通ずるものを感じ、一瞬にして魅せられてしまった。
 わたくしも病気のデパートのオーナーを自認するほど万病息災の人生を突っ走っているが、人との約束事に縛られることによって、生命力を活性化させていただいている。そんなことで真屋さんとの対談も早めにお願いしたが、人との約束というハードルを越える気迫に満ち満ちているのだろう。リハビリに励み、励んだ成果が見事に実り、滑舌のはっきりとした話し方をされていた。
 長い間日本舞踊を習っていた順子さんの手の表情の美しさは格別だった。凛として対峙しながら、表情豊かな手の動きを見ているうちにひたすら願っていた。
】"人生百年"時代 「命」と「勇気」がキーワード  女優 真屋順子さん--吉武輝子さん 亡くなった夫の高津さんが50年後にプレゼントしてくれた「出雲の阿国」を、たとえ車いすででも再演していただきたいとのこの一言。願いを口に出した途端、順子さんが小指を絡めてきた。からめた指から「どんなことがあっても演じたい」との強烈な意志が伝わってきた。その意思をくみ取って、必ず実現の機会を作ろうと心に誓っていた。
 クミコさんも順子さんも、生きることへの底力に満ち満ちている。その底力が、見るもの聞くものに生命力を活性化させるのだなと、改めて生きることの素晴らしさを、たっぷりと対談中に味あわせてもらった。

クミコさんとの対談はこちらから

PROFILE
よしたけ・てるこ
1931年芦屋市生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。作家・評論家。小説、評論、伝記などの著書多数。近作は「病みながら老いる時代を生きる」(岩波ブックレット)、「老いては子に逆らう」(講談社+α文庫)、「〈戦争の世紀〉を超えて わたくしが生きた昭和の時代」(春秋社)。

(2011.02.04)