コラム

「正義派の農政論」

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【森島 賢】
「米価闘争」の復活で農協が試される

 新政権の農政転換の目玉は戸別所得補償制度の創設だ。来年は米で試行するという。米価が生産費より下がれば、その差額を補償する制度だ。この制度ができれば、米価に補償額を足し算した農家手取額は生産費より下がることはない。再生産が保証されるのだ。岩盤ができた、という人もいる。
 これまでは米価が過去数年間の平均米価より下がったばあい、その差額を補償する制度だった。だから米価が下がるにつれて、農家手取額は底なし沼のように、ずるずると下がった。だが、これからは生産費より下がることはない。岩盤ができた、といわれる所以だ。
 しかし、手放しで安心できるだろうか。

 生産費は岩盤になるだろうか。生産費といっても、農産物のばあい工業製品と違って、事実に基づいていて、誰もが納得できるような客観的なものではない。工業製品なら帳簿をみれば生産費はすぐ分かる。帳簿の中で生産のために実際に支払った金額を足し算すれば、それが生産費だ。
 しかし米の生産費はそうならない。生産のための労働、土地、資本の多くは自分のものだ。だから実際にその対価である労賃や地代などを支払うという事実はない。だから、もしも仮に自分の労賃が何円と仮定して自分が自分自身に支払ったと仮定し、自分の農地の地代が何円と仮定して自分が自分自身に支払ったと仮定し・・・それらを足し算すれば生産費は何円になるというものだ。仮定の上に仮定を積み重ねた頼りないものだ。

 民主党の政権公約政策集をみると、両方とも補償の基準は「生産費」だとはっきり書いてある。しかし、来年の農水予算の概算要求では「生産に要する費用」というあいまいな言葉に変わった。それは経営費に家族労働費の8割を足し算したものだという。
 教科書をみるまでもなく、経営費は私経済の言葉で、生産費は社会経済の言葉で、全く違うものなのだ。これは、言葉をすりかえ、したがって内容をすりかえたもので、厳密にいえば公約違反になる。
 だが筆者はこの公約違反を指弾しようとは思わない。補償基準を生産費に代えたこと、正確には生産費に近づけたことを高く評価したい。これを貫いてほしい。
 しかし「生産費」にしても「生産に要する費用」にしても、それは客観的な事実に基づいて計算したものではなく、仮定に仮定を積み重ねて計算したものだ。それゆえ、議論の余地は大きく、最後は全国民的な理解を得たうえ、政治主導で決めることになるだろう。

 かつて、米価闘争という農政運動が行われた時期があった。農協の先人たちが農政史の1ページを輝かしく飾ったものだ。こんどの農政転換はそれを復活させることになるだろう。
 正確に言えば米価闘争とは違う。米価運動は米価を何円にするか、を争点にした闘争だが、こんどは補償基準額を何円にするか、を争点にする闘争である。だから補償金闘争というべきかもしれない。しかしその結果、稲作の収入が決まるという点で米価闘争と同じだ。毎年秋が山場になることも同じだろう。
 争点は多い。補償基準額を決めるときに、生産費を基準にするか、経営費を基本にするか、また、どの経営規模階層をとるか、平均生産費か、限界生産費か、さらに、どの費目を含ませるか、そして、自己労働などの自給物をどう評価するか、などなど。そして結局、補償基準額を何円にするか。それらは、すべて政治が決めることになるだろう。
 補償を要求するのは農業者だ。農業者が農協に結集して要求することになるだろう。その場面は公開され、全国民が見守る中で農協の力量が試されるだろう。
 今日から国会論戦が始まる。論戦の主な主題の1つは、この補償制度だ。農協陣営の、より強靭な理論武装と、それに基づく農政活動の強化を期待したい。


(前回 大規模農家だけの減反選択制への転換

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(2009.10.26)