シリーズ

人 2010 地域をつくる、地域に生きる

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再生への確信 「農協職員は組合員の分身」を胸に(前編)

北海道士幌町・太田 助(たすく)さん
・十勝の空の下で
・先達に試される
・農家の願い
・組合への目

 かつて農村はどこも貧困からの脱却が大きな課題だった。それを克服した、とする今、しかし、私たち誰もが危機感を持って農業の復権と地域の再生が必要だと考えている。なぜ、衰退や疲弊を招いたのか。立ちはだかる現実は厳しいが、いつの時代も展望を拓いてきたのは人々の力であることに変わりはない。とくに農業・農村にあってはその土地に生きる人々の変革への確信なくしては成し遂げられなかっただろう。「新シリーズ・人?地域をつくる、地域に生きる」は「人が地域をつくる」をテーマに先人たちから引き継ぐべきその確信を照らし出していきたい。
 シリーズの第1回は北海道・士幌町農協の元専務、太田助さん(昭和9年生まれ)の農協人としての足跡を辿った。

人 2010 地域をつくる、地域に生きる◆十勝の空の下で

 目覚めたのは午前3時ごろだった。部屋は真っ暗だが、なかなか寝心地のいい布団であることは分かった。
 「そうか、ションコの家で寝てしまったんだな」。
 士幌町農協農産課職員の太田助は、昼間からその農家に上がり込んで飲むことになったいきさつを思い起こしていた。酒といっても今から50年も前のこと、合成2級酒だった。
 地域ではションコと呼ばれているが相手はサトウ・ショウジという自分の父親ほどの農民である。その日まで「大学出たてのお前に何が分かる?」と、とにかく人の話を聞かない。万事、「オレはここで30年農業やってんだ」―。
 しかし、借金を抱え、農協は経営改善指導農家のリストに載せていた。その任にあった太田は何とか自分が学んだ栽培技術を聞いてもらいたい、の一心だった。そんな太田に先日やっと「一緒に酒でも食らえば聞いてもいいべ」と一言。それにしがみつくように農家回りに使っている125ccのオートバイで酒瓶を下げてやってきたのだった。
 「おやじさん、こないだの話、ホントだべな。今晩、聞いてくれるか」と畑のなかに行くと「おうおう、今から飲むべ」。酒を見ると今晩どころか除草作業をとっととやめて家に向かう。「これだもんな。貧乏するさ・・・」。ため息が出る思いだった。
 が、極貧学生だった太田は酒になどありつくことはほとんどなかったため飲み始めてすぐに人事不省に。電話もない時代、ションコの家では、これは死んでしまうかもしれんと大あわてで「いちばんいい布団を引っ張り出した」というわけである。
 しかし、それ以来、太田の話に耳を傾け、土壌に合わせた施肥をするなどの工夫をしたションコは、収穫の日、「穫れたぁー。倍、穫れたぁ」と十勝の大空に向かって叫んだ。
 「ああいう顔が最高なんだな、本気になってぶつかっていけばいいと分かりました」。
 最低気温マイナス18度と09年冬いちばんの冷え込みの日に士幌町を訪れると、太田助はこんなエピソードから話し始めた。


◆先達に試される

士幌高原の眼下に広がる十勝平野 昭和33年春、帯広畜産大学の田島重雄教授のもとに、士幌町農協の太田寛一組合長が代理を命じた吉山課長が足繁く通ってきていた。
 太田寛一は昭和10年に上帯広産業組合に勤務、その後、士幌町に移って昭和28年に組合長に就任。後にホクレン会長、全農会長を務める。士幌町で「農村工業化」の旗を掲げて「農村ユートピア」をつくることを戦前に誓い合い、その実現に強力な指導力を発揮した獣医の秋間勇、町長にもなった飯島房芳とともに士幌町の三英傑である。
 太田寛一の狙いは太田助に農協職員になってもらうことだった。当の助は卒業後、副手として田島研究室に残りながら、渡米して労務者として働けば一年ぐらいの学資は稼げミネソタ大で勉強できるという話がまもなく実現すると考えていた時期。しかし、度重なる組合長の来訪に田島教授は「渡米したつもり、でどうか。その代わり3年したら大学に戻れ」と説得。太田は農協職員になることを決断した。

 この年、士幌町農協は帯畜大出身者を太田を含め3人採用するのだが、太田寛一は決して三顧の礼で研究室にお願いしたわけではないようだ。
 「承諾の返事をすると、じゃあ、面接に来い、ですからね。どういうことだと思いました」。
 その面接、立ち会ったのは組合長のほか専務の長瀬健市、そして太田寛一の後を引き継ぎ組合長になる参事の安村志朗だった。3人が突きつけたのは「借金をなくす経営指導」。しかし、当時の士幌の900戸あまりの農家で借金のない家はまずなかった。「できません」。帰ろうとすると「ちょっと待て。全部とは言わん。借金のいちばん多い農家を20戸選んだからそこだけでいい」。それでも躊躇していると「それなら、今までの借金は棚上げと考えていい。3年後に単年度ごとに黒字になるように指導してくれ!」。
 「なんとかできるかもと了承したんですが、まあ試されたんでしょうね。私に限らず太田さんにこういう思い出を持つ人はほかにもいると思います」。
 試されている、との思いはその後もしばしば感じたが、それらがことごとく地域の難問であることを入会時に指示された経営改善指導でいきなり思い知る。
 「20戸を良くすればいい、というがそれには全部の農家を調べ上げてどこが違うかを見つけ出さなければ話なんかできない」。
 同じ気象、土壌条件で穫れている人と穫れていない人がいる。穫れている人の技術を移転すれば全体がよくなるはず・・・・・・。早朝からオートバイで農家を訪ね歩く太田の姿が見られるようになるのはそれからだ。そのなかにションコのような借金を抱えているのに「聞かない」農家もあったわけだが、一方、経営のお手本になるような篤農家は「教えてくれない」のが現実だった。

 太田寛一らが提唱した農村工業化はこのころすでに実現への道を歩み始めていた。明治30年代からこの地を開拓した農家は主に豆類を栽培していたが、冷害による凶作にしばしば悩まされていた。そこで冷害に強い作物をと、根菜づくりが試みられでん粉原料用の馬鈴薯づくりが始まる。しかし、でん粉工場に安く買い叩かれている事実を知るに及んで農家自身が加工しなければ豊かにはなれない、と士幌町農協は戦後、農協が設立されるとほぼ同時にでん粉工場を買収する。
 これが今に至る農村工業化、あるいは昨今の農商工連携の先駆的な取り組みとしてつとに有名な歴史の始まりではあるが、昭和30年代になったからといっても、課題は農家が金をとれる栽培技術にあることに変わりはなかった。
 だから篤農家の技術が必要なのだが、簡単には教えてくれない。そこで太田がとった行動は「外から眺める」だった。
 2年間、じっと観察するとやはり周囲のやっていないことを実践していた。それを専門書で調べ、あるとき「おやじさんはこの先生の言ってることと同じ工夫してるでしょう」と書物を見せた。「何?」とぶっきらぼうな態度だったが学問的な裏付けがあると聞けば悪い気はしないものだ。

(写真)士幌高原の眼下に広がる十勝平野

 

◆農家の願い


 こうして農家と距離を縮めていくと、たとえば「今年の夏は雨は多いぞ」などと農家が教えてくれるようになった。
 「なして分かる?」
 「ほれ、この井戸見れ」。
 農家が言うには士幌に降る雨の量は決まっている、この3月に井戸の水位がこれだけ低いと夏に降る、である。あるときはコブシの花が下向きに咲くと雨が多く上向きだと日照りだ、などと言う農家もいた。
 「これが当たるんです。篤農家は自然現象をしっかり見て実践している。こっちが教えられたこともたくさんあります」。そのころから自分の農場だと思って地域を回るようになった。
 農家の声をくみ取る実践によって成果が上がったことのひとつに種芋の貯蔵庫建設がある。
 馬鈴薯は収穫したものを2つか3つ切りにし、種芋として春に植え秋に収穫する。種芋は昔から畑に30cmほどの穴を掘って入れ、麦殻や土で覆って翌春まで貯蔵していた。しかし、覆う土の厚さや冬の気温によって種芋が凍結してしまうことがしばしばあった。当然のことだが、種芋の質は収穫に大きく影響するばかりでなく、でん粉工場の計画的な操業にも影響がある。農家からは種芋を安定的に貯蔵できないかという声が高まっていた。
 農協は組合員農家全戸を対象にした欧州視察を実施、組合員はオランダの農家で一定の温度で貯蔵する倉庫を知り、帰国後、口々に貯蔵庫の必要性を言った。だが、個別よりも共同でという組合員の総意を受け馬鈴薯を生産する全農家が利用できる種芋貯蔵庫を建設したのだ。この施設のおかげで植え付け前に貯蔵庫から種芋を引き取り、計画的に栽培することができるようになったのである。

 

◆組合への目


河太利夫さん 若い太田、あるいは農協といってもいいかもしれないが、それを農家がどう見ていたのかを物語るエピソードは多い。
 昭和35年に同農協上居辺(かみおりべ)青年部を立ち上げて委員長になり、今は太田の近くに住む河太利夫も最初はいい印象は持っていない。
 ある日農協を訪ねると試験室ができていた。そこで土壌分析をするのだという。河太は「こんなもので何が分かる。農家はよくなるのか」と思わず口走った。室内から返ってきたのが「馬鹿なことを言うな」。河太はそれが太田とは知らず「生意気な若いやつ」と思った。
 ただ、有線放送で「農産課の太田です」で始まる営農情報の時間があり、そこで季節ごとの作物管理作業、病害虫発生や霜注意など1人で伝えていた。河太には「熱心で理路整然としている」との印象はあった。
 その河太が太田とまさに仲間になっていくのは青年部立ち上げがきっかけだ。河太は中学卒業後に就農し青年団活動にも熱心になるが25歳で退団すると、その年頃の若者が集まる組織がないことに気づく。聞けば、よその農協には青年部があるという。当時の支所長にかけあって栽培技術や農協の事業を勉強する場にしたいと提案したところ、地域で25人の若者が賛同した。事務局役として農協から来たのが「有線放送で聞いていた太田さんだった」。
 発足の前夜には太田寛一組合長もかけつけた。河太はトップの登場に感激したことを忘れない。太田によると組合長はこの地域の青年たちは小学校から農協貯金をしていたことを知り「青年部発祥にふさわしい、農協を理解している人たちの集まりである」趣旨のあいさつをしたという。
 河太にとって青年部は、一人は万人のために万人は一人のために、を初めて聞かされた組織である。雑穀の集荷に青年部が働き手の少ない農家のために馬車を出したり、荷下ろしの手伝いをしたりと自発的な助け合いの活動も始まった。理屈も行動も含めて「あそこの若いもんはなかなかやるぞ」と農協理事ら「偉い人」から評価されるのがうれしかったという。
 ただ、太田は組合員にとって組合長ら幹部は「偉い人、ではあるが言葉で農協に結集を呼びかけても農家に心からの信頼があったか。そのころは太田寛一さんだってまだまだ農家が求めていることを分かっていなかったと思います。農協の言うことを聞いていればいいんだ、とね」と振り返る。
 だから、自分は組合員との「接点」になり農協に現地農家の声を届けると決めた。だが、言うは易し、であった。(文中敬称略)

(写真)
河太利夫さん
現在は士幌町民生児童委員協議会会長を務めている。昭和11年生まれ。

後編に続く

(2010.01.18)