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人 2010 地域をつくる、地域に生きる

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再生への確信 新たな「開拓」へ!(後編)

北海道士幌町・太田 助(たすく)さん
・そろいのブレザー
・辛抱と工夫
・真のユートピアを

 北海道・JA士幌町元専務の太田助さんは昭和33年の入会以来、「組合員の畑は自分の畑」と思って営農指導や協同活動に努力し地域農業づくりを支えてきた。開拓から120年、士幌町には大型の農産物加工場などが建ち並び、地域の人々がめざしてきた農村工業化の姿を見せている。ここに至る農協職員としての太田さんの足跡はそのまま地域づくりでもあり学ぶべきことも多い。しかし、今、太田さんは「第2の鬱蒼とした森が地域に広がっている」という。その意味は何か。引き継ぐべきことは――。

◆そろいのブレザー

三英傑の写真を飾る書斎で 太田は、組合員との接点となる、と決めたものの、そもそも組合員たちが農協に求めていることに理解しがたいこともあった。
 たとえば、組合員への農協利用割り戻し金は、一戸の農家の年間生活費に相当するほどの分を還元するまでになった。これだけを捉えれば戦後、士幌町農協がいかに発展したか、歴史に残る実績を示す話である。
 しかし、農家を巡回して聞こえてくるのは「隣の農協では総会で帽子が配られたという話じゃないか。なのに士幌農協は何にもくれない」といった声。太田は「いや、これほどの割り戻し金を還元しているのは他に例がないですよ。ここまで事業が立派になったのはみなさんの力だが、農協はちゃんと組合員のことを考えているじゃないですか」と言うのだが、「そんなことは当たり前だ。理屈は聞きたくない」と言い返される始末だった。
 営農指導では理路整然と話す、と組合員から評価の高い太田だったが、「理屈はいい」と言われれば立つ瀬がない。
 そこでホクレン会長に就任していた太田寛一組合長が札幌から戻ったある夜、自宅に出向き、あらいざらい話をしたうえで、「ここは理屈抜きで組合員の気持ちに応えてやってもらえませんか」と率直に言った。じっと聞いていた太田寛一は「分かった。何か出すことにする」と答えた。
 何を出すというのかと思っていると、後日、太田寛一は「今度の総会では、農協名入りのブレザーを全組合員に配布する。準備しろ」と職員に指示したのだった。
 太田にとっても想定外のことで、しかもそれは組合員だけでなく職員にも支給されたのだ。総会以降、組合員も職員もそろいのブレザーを来て町内外を歩くようになった。
 「帯広の飲み屋あたりにもみんなそれを着て繰り出すわけです。そこで、いやあ、士幌農協はすごい、たいしたもんだ、と言われましてね、文句を言っていた組合員も、いっぺんに鼻高々になったというわけです」。
 今では笑って振り返るが、組合員の「気持ち」とは何か、を考えさせるエピソードである。
 もちろん、一方で具体的で切実な要望もある。しかし、その組合員の声を実現するために太田はひと工夫をしたのだという。
 「それは、組合員の声が生きるように組合員に教育的に仕掛ける、ということでした。私が組合員から聞いて農協に提案するのではなく、これは組合員が言っていることなんだとなれば、説得力を持つと考えたわけです」

(写真)三英傑の写真を飾る書斎で


 
組合員の力を引き出す

士幌高原に立つ銅像 その一例が支所の新設だ。今は農協直営農場がある士幌高原の麓の新田集落で購買店舗がほしいという声が出た。当時、その集落は隣の鹿追町農協の支所を利用していた。太田は農家たちにその支所の購買利用実態調査をするように進言する。そんなことできない、というので、調査の仕方、集計方法まで教えた。そしてその結果を示し「これだけの利用が全部新支所に回れば経営は成り立つ」と組合長に要望させた。
「ホントに自分たちで調査したのか?」。組合長の質問にも「太田の名前は絶対出すな」と言い聞きかせてあったので、答えは「そうだ」。こうして組合員の「気持ち」を「声」にして実現させたのである。
「私は農協職員は組合員の分身でなければならないと自分にも後輩にも言い聞かせてきました」。

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 JA士幌町の農産物販売額は今、畑作、酪農、畜産を合わせて約280億円。でん粉工場のほか農協が設立した食品加工会社、北海道フーズや雄ホルスタインを牛肉処理する直営工場などの販売高を合わせると500億円を超える経済規模をこの町は生み出す。
 1頭3000円にしかならなかった雄ホルスタインをどうにか金にできないか、と目を着けたのは、太田が三英傑プラスワンと呼ぶ元組合長の安村志朗だった。ただし、肥育頭数が増えれば排泄物も増える。そこでたい肥センターも作り畑に還元することにしたのだ。この耕畜連携を実現させたのは昭和40年代である。現在、肥育センターは18か所にあるがこれは畑地面積から逆算して設置場所と数を決めたのだという。
 その安村は、士幌町農協が戦後設立直後にでん粉工場を買収した際の功労者である。

(写真)士幌高原に立つ銅像

 

◆辛抱と工夫

 安村は15歳で士幌村産業組合の購買店舗の売り子になる。太田寛一らは20代で地域の未来を盛んに論じていた頃だ。農家自身が加工して販売までしなければ農家は絶対に豊かにならない、と若者たちと農村工業化、文化的で豊かな農村に向けて激論を闘わせていた。安村は難しい理屈は分からないが、工場を持つなら金がいるだろう、その元手づくりぐらいはできるのではないかと思い組合に貯金を始める。しかし、どういう方法をとったのか。
 戦前戦中は肥料不足で農家はクローバーを栽培し緑肥にしていた。翌年栽培用の種子を採取し出荷を終えると鋤込むのだが、安村少年は鋤込む直前の農家を訪ね「自分にもう一回、種を落とさせてくれないか」と頼んで歩いたのだという。怪訝な顔の大人たちを尻目にほんのわずかなクローバーの種を集めて回って販売、農協に「別段貯金」として積み立てた。今なら大問題になるところだろうが、その額は終戦直後に20万円になっていた。戦後、でん粉工場を買収する際、農家には新たな出資が必要になるのではないかと反対論もあったが、そのとき「お金なら農協にあります」。安村の別段貯金がこの地域の歴史を動かしたのである。
 太田はこの話を知ってこのリーダーに心が震える思いがした。信条は「辛抱と工夫から生じる富」だったという。
 祖父が士幌町産業組合の初代組合長だった?橋正道現組合長は「信頼、感謝、喜びの3つが農協運営の指針」と語る。信頼とは三英傑が「決して農民を裏切らない」と血盟の誓いを立てたことを引き継ぐ。感謝は、仲間と農業ができることへ、そして支持してくれる消費者へ、である。喜びは、ともに喜び合える農村空間をつくることだという。「結局は安村さん、太田さんから教えられたことです」と話す。
 
組合員の分身たち、脈々と

JA士幌町高橋正道組合長 ところで太田は3年経ったら大学へ戻る、という約束だったのではないか。
 「ええ、確かに話はありましたが、ここで苦労している農家を見過ごして帰るわけにはいきません、と」。出身は西紋別郡西興部村。畑を借りて自給作物を作っていた母を手伝い貧乏の苦しさが身にしみていたから、士幌を去ることはできなかった。
 実は士幌町農協は太田が入会して数年後、つまり昭和30年代後半から職員採用試験を実施してきている。?橋組合長によると「現在、男性職員のうち地元出身者はほとんどゼロ」。町外出身者がほとんどというのは極めて珍しいのでは、と組合長に問うと「そんな指摘は初めて。当たり前だと思ってきました」と逆に驚かれてしまった。「だから、職員は地元の農家に信頼されるかどうかが問われるんです」。太田は特別な存在ではなく、この地に来て「組合員の分身」たらんと生きてきた職員が脈々と続いているのである。

(写真)JA士幌町高橋正道組合長

 

◆真のユートピアを


宮本勢津子さん 開拓前、鬱蒼とした森だった地域が先人の苦闘で広大な農地や大規模コンビナートが立ち並ぶ農村へと確かに変わった。「ユートピア」は近づいたのではないか。しかし、太田は「今は第2の鬱蒼とした森が立ちはだかっている」と言うのである。
 それはたとえばこんなところにも現れているということだろう。
 平成9年に役員退任後、太田は13年に町教育委員会の委員長に就任する。そして、1年後、士幌高等学校を町立から道立に移管するという話が持ち上がった。町立高校があることに驚かされるのだが、これも農村ユートピアを唱えたあの3人の尽力によるものだった。人を育ててこそ地域、との思いだ。もちろん農業を教える。道立移管の理由は志望者が減ってきているからだが、道立になれば単純に定員割れなら廃校と考えられてしまう、と太田たち教育委員は反対を貫いた。
 かつて農協職員であり現在、教育委員を務める宮本勢津子は「太田さんは農家もしっかり勉強しようという思いで学校をつくった、ここを無くすのは農業を潰すのに等しい、と論陣を張ったんです」。

(写真)宮本勢津子さん


 
農への心、育め

宮田ヨシ子さん 町立は維持されたものの、その後、卒後の2年間で実践的に農業を学ぶ専攻科の廃止が決まった。こうした変化とともに、町の教育に携わる宮本は、この農村地域でさえ最近では、“食農教育“を強調しなければならなくなっていることに「将来はどんな大人になるのか」と不安がよぎる。
 「私たちにすれば太田さんは昔気質。農家の女性に向かっても熱心に指導していた。野菜をろくに作れないでは、大きな畑もできない、ってね」と語るのは農協婦人部長を4期にも亘って務めた宮田ヨシ子である。宮田は農協の品評会で何度も優秀賞をとった。いい物をつくっておいしいと喜んでくれることにまさに喜びを感じてきた。自宅の壁には立派に育ったカボチャを抱えて笑顔の宮田の写真が飾ってある。
 今も有機野菜やみそを作り直売市の販売の先頭に立っている。しかし、その宮田は近所の女性たちで野菜づくりをする人が少なくなっていることに顔を曇らす。宮本と同じように農や食への「心」が育っているのかと思いが湧く。
 太田が意味するものとは違うかも知れないが、この地域を見つめ続けてきた人たちと話をするうち「第2の鬱蒼とした森」とは「心」のなかにあるのではないか、とふと頭に浮かんだ。だとすればそれはこの地域に限ったことではない。新たな「開拓」が私たちに求められている。
 ユートピア建設を掲げた三英傑は、今、銅像となって士幌高原に立つ。その脇の碑には「人びとの志気をふるい起こさんことを希う」とあった。(文中敬称略)
 

(写真)宮田ヨシ子さん

(前編はコチラから

(2010.01.25)