農産加工の原点は「家族」にあり
◆地域づくりにも貢献した婦人部活動
昭和55年からしばらく、西暦でいえば1980年代初頭は米の不作が続いた。昭和55年の全国作況指数は「87」、その後3年間は「96」である。 東北はより深刻で、昭和55年の青森県の作況指数は「47」と半作にも満たなかった。翌年が「65」、そして佐野が田子町農協婦人部長となった昭和57年にようやく「99」の平年作となる。
冷害続きで生活が厳しくなるなか、農協婦人部長としてこのころ取り組んだのが地域の生活合理化運動だった。具体的には冠婚葬祭の簡素化、あるいは手づくり化、とでもいうべきもの。昨今でいえば生活防衛の取り組みというところだろう。
“公民館方式”の結婚式がそれで、会費制の人前結婚式の普及に町全体で取り組む。普及のためにそうした結婚式がどういうものかを知ってもらうために模擬結婚式をすることになったのだが、女性部員たちが祝いの席の料理を手作りしたのだという。一人2000円程度の料理を、との要望に部員たちは自分たちが栽培している野菜などでメニューを工夫し、購入品は尾頭付きの鯛など最小限にとどめた。
この方式を本当の結婚式でも採用されてはかなわないと旅館や仕出屋からは、しっかりと釘を刺されたというが、会費制の人前結婚式はこの町に根づいていった。
この運動は商工会との連携で実現した。それまで農協とは縁が薄く、どちらかといえば利害が対立するとお互いが思う存在だったが、商工会からの呼びかけに佐野は積極的に応じた。結果的にこの運動は農協婦人部が町づくりにも貢献することを示したのだった。
◆先輩の支えと部員とのキャッチボール
一方、女性部内でも生活合理化運動を進めた。自宅で行う法要などの食事も「お膳は各家にあるのだから」と手作りを勧めたのである。50集落のうち30集落から依頼があって料理教室を開いた。講師は佐野が務めた。現在、自宅敷地内に作業工房があってそこでさまざまな加工品づくりに取り組んでいるが、そこの壁には調理師免許が掛かっている。取得したのは昭和58年だ。
「地域に何が必要か。みんなが何を求めているか。それをリーダーはキャッチしなくてはいけないと思っていました」と振り返る。
部長として県や全国の研修に飛び回ることも多くなり、さまざまな優良事例や学者からのヒントを聞くことも多くなった。だが、「どんな素晴らしい話を聞いても、今日の話はすごかったよ、だけでは活動のエネルギーは生まれない。私にできることは何かを考え部員とキャッチボールしようと思ってました」。
もちろん最初から部長の役目がすんなりと務まったわけではないという。副部長たちは現職の組合長婦人など自分の母親よりも上の世代。いわば「御大」である。会議があった日、運営の仕方、あいさつなどをめぐって厳しいアドバイスがあとから来た。「次の会議をどうすればいいか、深夜に悩んだこともありました。ただ、荒波にもまれないと成長しない、支えてくれる人たちがいて一人前になれると思いました」。
◆自給と加工、農家の思いを込めて
田子町の中心にはガーリックセンターがある。運営しているのは(財)田子町にんにく国際交流協会。 同協会は「にんにくが縁で結ばれた世界の都市との国際交流の推進と、田子町のにんにく産業の振興という大きな2つの目的で1993年(平成5年)に設立」された(同センターホームページより)。
館内には、にんにくやその加工品のギフトショップやレストランがある。国際交流とは、姉妹都市提携を結んだ米国カリフォルニア州のギルロイ市との交流だ。同市もにんにく産地だという。田子の中高生が毎年同市に研修に出かけるという。産地振興だけでなく、町は人づくりにまで視野に入れている。
佐野たち婦人部がにんにくの加工品を開発する事業を始めたのは昭和60年のことだ。
「なんで日本一高い値段で売れているのに加工などするのか!」と農協からは反対された。しかし、佐野たちの思いは産地としては有名になったが、訪ねてきてくれても「おみやげとして渡すものがない」という思いだった。
農協には婦人部自らが加工するから、と農協ストアの調理場スペースを借りた。加工品はにんにくを梅肉と鰹節でまぶしたものなどだ。
「始めてみると樽がどんどん並んで階段の踊り場まで。婦人部の手には負えないほど注文が殺到したんです」。
売り上げが1000万円を超え黒字になったところで農協へ事業を譲渡した。平成5年のことである。そして平成20年には2億円を超える事業となったのである。
婦人部としての加工事業はその後、みそ加工へと転換する。色の変わった枝豆を出荷せずに大豆にし婦人部が買い取っている。にんにくにしても枝豆にしても、規格外品を加工品にして生産者の利益を確保することにつながっているし、「何よりも地域の自給運動として広がっていった」ことを佐野は評価している。
にんにくと梅肉、そして鰹節をまぶしたにんにくの梅漬けは「にんにこちゃん」という名前で販売したのだがこれは佐野のオリジナル品である。ただし、加工品のコンクールに出しても佳作にもならないものだったという。それに注目したのはある町役場の職員。町主催のシンポジウム参加者へのおみやげとして製造を頼み込んだのだ。当時は工房もなかったことから自宅で作った。注文は200個。期日まで2か月だった。家には、にんにくの臭いが漂い子どもたちは顔しかめたとか。
これが評判になったのだが、しかし、これほど大量に作ったことはなかったにせよ、佐野によればもともと家族のために作っていたものだという。
「家具工場で働いていた連れ合い」は会社の経営不振から東京に出稼ぎに行かなければならない時期があった。そんなとき健康を思って荷物に忍ばせたのが後の「にんにこちゃん」だった。
「ある年、夏バテして東京で倒れたという連絡があったんです。ろくに水も飲まずに作業をしてたのが原因だとか。でも、聞いてみると持たせたにんにくの梅漬けを食べてなかったって」と今は笑う。
「自分たちが食べるものを自分たちで作る。これが加工の基本だと思っています」。
原点は家族にあった。(了)
(写真・左)
平成18年には、アイデアレシピを紹介した本も出版した(創森社刊)