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食肉流通フロンティア ―全国食肉学校OBの現在

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第11回 宮崎牛の良さに誇りと自信をもって

宮崎の園芸農家から群馬の全国食肉学校へ
農場からレストランまでを経営する食肉会社ミヤチク

永友英勝さんの実家はトマトやメロンを生産する園芸農家だ。その永友さんが食肉業界に入ったのは、高校卒業後は「地元の企業で働きたい」と考えていたところ、地元に(株)ミヤチクの都農工場があり、興味を持ったからだという。
 お父さんが「趣味で4〜5頭の牛を飼っていた」が食肉業界とは無関係で、食肉に関する知識もなかったので、全国食肉学校の本科(現在の総合養成科)に20期生として入学する。

◆宮崎の園芸農家から群馬の全国食肉学校へ

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永友英勝店長

 永友英勝さんの実家はトマトやメロンを生産する園芸農家だ。その永友さんが食肉業界に入ったのは、高校卒業後は「地元の企業で働きたい」と考えていたところ、地元に(株)ミヤチクの都農工場があり、興味を持ったからだという。
 お父さんが「趣味で4〜5頭の牛を飼っていた」が食肉業界とは無関係で、食肉に関する知識もなかったので、全国食肉学校の本科(現在の総合養成科)に20期生として入学する。同期は47名、永友さんと同じ高卒者が3割、一番年上の人が33歳と大きな年齢差もないこともあって「ライバル意識」を持ちながらも仲がよく、忠臣蔵になぞらえて「47士」と呼ばれたりしたという。
 南国宮崎から群馬県玉村へ、さらには1年間の寮生活と環境は大きく変わったが、牛の大きさに驚いたりしながらも「一所懸命勉強し、精神的にも鍛えられた」と当時を振り返る。
 卒業後は宮崎に帰り、(株)ミヤチクに就職する。

◆農場からレストランまでを経営する食肉会社 (株)ミヤチク

 (株)ミヤチクは、昭和54年に系統農協によって設立された(株)宮崎くみあい食肉と昭和46年に設立されていた(株)宮崎県畜産公社とが、昭和56年に合併して誕生した名実ともに系統農協が主体的に運営する産地食肉センターだ。平成13年には食肉ブランドとして定着していた「ミヤチク」に社名を統一している。
  現在、本社と併設の高崎工場(都城市)と都農工場を中心に3か所の加工センターと、自然の好環境に恵まれ宮崎の地の利を活かした10か所の直営農場を持っている。
 食肉や加工品の卸・販売だけではなく、宮崎市内でステーキハウスなどレストランを4か所と永友さんが店長を勤める東京・銀座の「宮崎牛専門店・銀座みやちく」を直営。今年4月には福岡に「博多みやちく」をオープンするなど、文字通り生産・加工・卸から最終的に消費者の口に入るまでの、食肉に関するビジネスを一貫して展開している。

◆さまざまな職種を経験してレストラン店長に

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エレベーターをおりると
落ちついた雰囲気が出迎えてくれる

 全国食肉学校を卒業して(株)ミヤチクに入社した永友さんが最初に就いた仕事は豚の脱骨だった。2年半後にミートセンターに異動、食肉をスライスして包装し農協Aコープ店舗に出荷したり、当時売り出し中だった宮崎牛をステーキやしゃぶしゃぶ用に加工し贈答用として直販する業務を担当した。
 その後、営業に異動して食肉をスーパーや小売店に卸す卸業務を経験。飛び込みの営業をしていた時期もあるが、そのときに神戸で阪神・淡路大震災にも遭遇する。
 平成9年にミヤチクでは、直営の宮崎牛焼肉店「アパス」を宮崎市内に開店するが、永友さんはその立上げに参画。全農直営の焼肉店「ぴゅあ」などで研修し、店舗運営の実際を学ぶ。そして13年には「ステーキ ミヤチク」の開店に参画し、19年に「銀座みやちく」の店長として東京に転勤となる。
 「銀座みやちく」は、16年9月のオープン。50席強と店の規模としては大きくはないが、最上級の宮崎牛を鉄板焼やしゃぶしゃぶで提供し好評を得ている。牛肉は宮崎牛としてしっかり仕上げられたものを使用しているが、それ以外の食材でも宮崎県産をできるだけ多く使うことを心がけている。肉の味を引き出す塩も宮崎県産の北浦塩を使うなど、こだわりをもっている。
 銀座という土地柄もあって夜の時間帯は接待で使われることが多い。席への案内からお絞りや料理を手渡す順番など、その場の流れを見てどちらが接待側なのかを推測するなど、細かいところまで気を使い「接待のサポート」がきちんとできるように心がけているという。そう語る永友さんは、接客業のプロとしての自信に満ちていた。

◆1頭をムダなく食べてもらえるようにしたい

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高級感あふれる店内

 これからの夢はという問いに、ちょっと考えてから
「いまの店ではロースとかフィレに、使う食材が集中しています。食肉会社が経営するお店なので、それ以外の部位も食べてもらえるようなお店をつくり、宮崎牛を1頭ムダなく使いきれるようにしたいですね」。いま首都圏での出店は銀座だけだが、ロースなど高級部位以外の部位も使ったレストランを「ぜひ、出したいですね」と語るとき、その目は輝いていた。
 トマトやメロンを生産する園芸農家に生まれた永友さん。「地元で就職したい」と飛び込んだ食肉産業の脱骨から始まって食品スーパー用の精肉のスライスからステーキやしゃぶしゃぶ用カットを身につけ、小売店や量販店への卸の仕事を経て、いまはサービス業としての真価が問われる消費者と直に接するレストラン店長として、東京・銀座のど真ん中で頑張っている。
 全国食肉学校に入学したときに、いまの姿は想像だにしていなかっただろう。だがそれは、食肉業界それ自体が幅広い分野をもっていることを表しているともいえる。
 学校を卒業して23年。食肉業界のさまざまな仕事を経験して、「仕事は楽しい」し「悔いはありません」と笑顔で応えてくれた。後輩の人たちに向けては「食肉は生きものをと畜して人に食べてもらう仕事だということを忘れないで欲しい。そのうえで、扱うものの良さを理解して、自信をもって消費者に説明し提供して欲しい」と語ってくれた。その言葉は永友さん自身が、宮崎牛に自信と誇りをもって仕事をしていることの表れでもある。

【著者】永友英勝(本科20期生 昭和59年度)
           (株)ミヤチク銀座みやちく店長

(2008.08.28)