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なぜ教員が不足するのか?意欲削ぐ"教育の歯車化" 武道家・思想家 内田樹氏2026年4月3日

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教育現場で深刻化する教員不足。その背景には、過重な業務負担や待遇の問題だけでなく、教育の現場から権限と尊厳を奪ってきた制度の歪みがあると指摘する。武道家・思想家の内田樹氏が、日本の教育行政の課題を問いかける。

武道家・思想家 内田樹氏武道家・思想家 内田樹氏

講演が続く。「もう講演はやらない」と何度も宣言しているのだが、少しも減らない。依頼してくる人の言葉があまり切実なので、つい同情してしまうのである。行って励ましの言葉を告げるくらいでいいのなら、老骨に鞭打つにやぶさかではない。とりわけ教育関係からの講演依頼には何か「鬼気迫る」ものがある。

教育現場にはいくつも緊急な危機があるが、その一つは「教員が足りない」ことである(もう一つは「子どもが足りない」ことである。どちらも足りないのなら、別に困ることはなさそうなのだが、どちらについても困っている)。

教員が足りないのは公立学校である。文部科学省の調査によると、2025年4月1日の始業時点で、全国の公立学校の教師不足は4317人だった。3年前の調査では不足が2065人だったから急増している。不足している学校数は全体の約8%だが、地域差が大きく、不足率が極端に高い自治体が存在する。大阪もその一つである。友人の元府立高校教員は、すでに定年退職しているのだが、この4月の始業に教員数が足りないないので来てくれないかという申し出がすでに12~3校からあったそうである。

公立学校での教員不足の主な原因は、小学校からの英語教育やICT教育、特別支援学級など、教員に課される事務量が急増していること、民間の雇用環境がよくなり、教員の長時間労働と薄給のマイナス面が目立つようになったこと、パワハラや不登校や保護者対応で教員の心理的負荷が過重になっていることなどなどが挙げられている。現場の教員に聴くと、「子どもの指導について、保護者に執拗に責め立てられること」と「管理職に事細かに査定されること」の二つが職場が暗いものになる最大の原因だそうである。

わかる気がする。どんなにタイトな仕事でも、それに対する感謝の気持ちが誰かから示されて「ありがとう」という言葉が贈られるなら、人間はかなり無理してでも頑張ることができる。でも、激務である上に、仕事のアウトカムを上司からうるさく査定されたり、保護者から夜中まで電話で怒鳴りつけられたりしたのでは、労働意欲が減退して当然である。

問題は、この事態について「自分に責任がある」と思っている人がどこにもいないということである。文科省は自分たちが現場に次々と課しているタスクを減らす気がない。「大量のタスクによって質が低下している教育活動をなんとかするための中期計画」のようなブルシットな仕事を課すことで、ますます現場を疲弊させている。モンスターな保護者たちも、自分たちが教員を責め立てるのは学校を改善するための努力だと信じているので、メンタルが壊れた教員たちの離職について自分に責任があるとは思っていない。さすがに管理職である校長や教頭は、離職者続出について管理責任を問われるし、自分自身授業をしたりクラス担任をしたりしなければならないので、困惑しているが、教員不足はもう彼らの個人的努力でどうかなる限度を超えている。

ここに至るまで教員を痛めつけ、教師という職業の価値を引き下げてきたのは、これまでの日本の教育行政の責任である。教員から権利を奪い、自由を奪い、負担と責任だけを強化したきたのであるから教員志望者が激減するのは当然である。それが「当然である」ということにまったく気が付かず、教員の待遇の劣化に必死になってきた教育行政の当路者の脳内がどうなっているのか、私にはうまく想像がつかない。

本欄を読んでいる方の中にはご存じのない方もいるかも知れないが、大学教授会がほとんどの権限を失ったのはつい10年ほど前のことである。2015年施行の学校教育法の改正によって、教授会は学長の諮問機関に格下げされ、それまで教授会の専管事項であった入学・卒業判定、人事、予算配分などについてほとんどの権限を失った。第二次安倍政権下で進んだ「大学ガバナンス改革」の一環である。「学長のリーダーシップ強化」「権限と責任の一致」を謳ったものだが、要するに学校を「株式会社みたいなもの」に再編することに夢中だった人たちが進めた改革である。

それに先立つ2000年には小中高の職員会議も「校長の補助機関」であると定義された。学内の問題を議論したり決議したりする機関ではないということが法的に明確化され、職員会議は単に校長からの指示を周知するだけの連絡会議に格下げされた。

日本のメディアが、教員志望者の激減と法改正の間に因果関係があることを指摘することはまずない(私は一度も見たことがない)が、教員たちから教育についての決定権を奪ったことと教員志望者が激減していることの間にはあきらかに因果関係があると私は思う。だから、教員を無権利状態に置くことが学校教育にとって「よいこと」だと信じている「組織マネジメント原理主義者たち」が教育行政を支配している限り、教員志望者の減少は止まらないだろう。多少給料を上げるくらいで志望者が増えると思っているとしたら、その人はよほど人間というものを舐めている。

これまたみなさんはもうお忘れだろうが、小泉政権の規制緩和の頃に「株式会社立大学」というものがあった。覚えておいでだろうか。大学教員は世間知らずでビジネスというものを知らない。だから、経営がうまくゆかないのだ。百戦錬磨の実務家が経営すれば「稼げる大学」ができる。そういう触れ込みで、構造改革特区に大学が次々設立された。今そのうちのいくつが残っているだろうか。ある株式会社立大学は、貸しビルをキャンパスにして、ビデオで授業をした。教育コストを最少化することこそ経営の要諦だと信じて大学を経営したのである。稼げる大学になるはずだったが、当然ながら学生が集まらずにすぐつぶれた。経営者たちはなぜつぶれたのか、今でも理由がわからないでいるだろう。

学生は「クライアント」ではないし、教育は「サービス」ではないし、教員は「奴隷」ではない。その当たり前のことが理解されていない。

人間は自由を享受し、尊厳を保つことで、働く意欲を高め、そのパフォーマンスを最大化する。人間を縛り付け、屈辱感を与えておいて、「どうしてこの仕事に人が集まらないのだろう」と不思議がってみせるような人間が今の日本では教育を論じ、政策を起案し、制度設計をしている。その現実をまずまっすぐ見つめよう。頭の悪い人たちが制度をいじっているのである。認めるのはつらいだろうが、それまず認めるところからしか日本の教育の立て直しは始まらない。

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