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コラム:小説 決断の時―歴史に学ぶ―

【童門 冬二(歴史作家)】

2017.01.08 
51対49の決断 鍋島 直茂一覧へ

 鍋島直茂は焦(い)ら立っていた。決断を迫られているからだ。はじめのうちは二者選択の比率は四十八対五十二だった。つまり豊臣秀吉が命じたことに肯定(従う)の気持が四十八、否定(従わない)の気持が五十二だったのだ。つまり現状維持を選ぶ方の意志が強かった。秀吉の命令は無茶だ。秀吉が命じたのは「あの男ではとてもこの家は保(も)たぬ。おまえが代れ」ということだった。

◆城主交代は関白の命令

 この家というのは龍造寺(りゅうぞうじ)家のことだ。肥前佐嘉(さか)(のちに佐賀)城の主だ。薩摩の島津家、豊後の大友家とともに"九州の三傑"と称されてきた。が、当主の隆信が島津家と戦って敗れ、討死するとたちまちステータス(家威)が落ちた。息子の政家が文字通りの"不肖の息子"だったからだ。
 直茂は隆信と義兄弟だった。隆信の母が直茂の父の後妻になったためだ。鍋島家は龍造寺家の家老を勤めている。だから政家の母がとった道は、自分から身分を下降させたことになる。なぜそんなことをしたかといえば、母にすればあくまでも政家に家を継がせたいからだ。直茂の義母になったあとも、
「政家を頼みますね。いつまでも支えてやって下さいね」と、直茂を拝がんばかりに切願している。それは政家の勢望が日に日に下落し、逆に直茂の人気が急上昇していたからだ。龍造寺一族で多久(たく)という重職は、
「直茂殿が城主になってくれ。民と家臣の多くがそれを望んでいる。政家殿ではダメだ。家もつぶれ、国も失う」とまでいった。
 いまの直茂にすればとんでもない話だ。
「恐ろしいことをいうな。そんなことはとてもできぬ。わしにそんな器量はない」
 直茂は手を振って辞退する。しかし城内でも領内でも、
「直茂様に国を治めてほしい」という期待は、急ピッチで高まっていた。だから政家の母はよけい気が気ではなくなるのだ。
「直茂殿はそんなひどいことはしませんよね」と、縋(すが)るように念を押す。直茂は、
「しません。ご安心ください」と応ずる。
 そんな時に秀吉が佐嘉城にやってきた。大友氏の嘆願で九州を荒しまわっている島津氏を討伐するためだ。城内で政家に会った。
(挿絵)大和坂 和可 「政家殿は何が得意だ」ときいた。もちろん大名としての心がまえだ。ところが政家は、「将棋です」と答えた。そばにいた政家の母は思わず、
(このバカ息子!)と落胆した。せめて鉄砲とか槍とか、戦国武将らしいことを答えてほしかった。が、人間巧者の秀吉は、
「そうか、将棋か。わしも好きだ。では一局手合せをするか」と政家の趣味に応じた。そんなふたりを直茂はハラハラしながら見ていた。秀吉のほうも鋭い感覚で直茂を瞥見(べっけん)(チラリと見る)していた。そしてひそかに、(家老だそうだがこの男は使える)と感じた。それがわかるので政家の母は気を失いそうになる。政家は全くのんきだ。
「王手飛車取り」と秀吉に攻められると、飛車を大事にするような差し方をしている。この時の政家は肥満体だった。そのため座った二本の足はとうにしびれている。しかし天下人の秀吉の前ではあぐらをかくわけにはいかない。感覚のなくなった足を尻の下に置いて、座っていた。
「わしの負けだ」
 突然秀吉が駒を投げ出した。政家の相手をしていることに嫌気がさしたのだ。
(こんなバカに肥前国はとても任せられない)と、完全に政家を見はなしていた。
「薩摩に向うぞ」
 そう告げて秀吉は席を立った。そばにいた者が慌ててあとを追う。
「政家! お見送りを」
 政家の母が声を励ます。政家も、はいと答えて立ち上った。いや立ち上ろうとした。が、足がしびれていて立ち上れない。モンドリその場にひっくりかえった。みんなびっくりして政家を見た。その騒ぎに廊下に出かかっていた秀吉がふりかえった。この光景をみるとニヤリと笑った。しかし目の底は冷く光っていた。従(つ)いてきた直茂にいった。
「この城の城主はおまえだ」そういって、
「いいか、関白命令だぞ」と釘をさした。秀吉はいまは関白(公家の最高ポスト)なのだ。直茂が辞退しそうなのでそう告げたのである。直茂は答えなかった。

◆直茂の深慮

 秀吉が去ったあと、直茂は義母にこのことを話した。
「私にも殿下(秀吉)からお話がありました」
 義母はうなずいた。そして、
「それであなたは?」
 どうするのですか、と目できいた。直茂は「困り果てております。ただ政家様を救う道がひとつだけあります」
「どのような道ですか」ワラにも縋るような表情で義母は直茂をみた。直茂はいった。
「すぐ関白殿下を追って、島津征伐の先手を勤めることです。私もお供をします」
「なるほど」。義母も妙法だと思った。すぐに政家に話した。しかし政家は首を横に振った「合戦はきらいです」といった。そして、
「こんな身体では馬にも乗れません」
 と悲しい笑い方をした。こうなっては義母も諦めるしかなかった。
「直茂殿、政家に代って城を治めて下さい」
 といった。城というのは領国のことだ。義母も龍造寺を継いでくれ、とはさすがにいえなかった。
 直茂は四十八対五十二だった決断を、急に変えて秀吉の命令に従おう、と心を決めたのは政家が合戦を嫌がったからだ。
 世はまだ完全に戦国が終ったわけではない。いつ敵が攻めてくるかわからない。そんな時に合戦を嫌がり馬にも乗れない大将では、部下も従(つ)いてこないし、逆に不安がる。年貢を納める領民も信頼しない。
「家臣のために、民のためにぜひ」
 と願う多久の言葉は正しい。直茂は佐嘉城主となり領国を引きついだ。決断は五十一対四十九だ。僅差だった。
 かれは、
「義母や政家殿は納得していない」
 と思った。
「関白命令などをいえばよけいコジれる」
 とも思った。どうするか。
 直茂は「藩祖」になった。「鍋島藩(佐嘉藩)の祖」ということだ。初代の藩主にはならなかった。初代藩主は息子の勝茂にした。慎重な直茂はそこまで手を打ったのだ。
 しかし直茂のこの配慮は政家や義母が死ぬと、垣根がこわれた。政家の子が幕府に訴訟を起した。
「肥前佐嘉の正当な領主は龍造寺家だ。鍋島家は主家を乗取った」
 という内容だ。しかし旧龍造寺家の家臣たちも協力し、この訴えは敗訴になる。訴えた政家の子は自決する。伝説が生れる。
「その血を吸った猫が夜な夜な佐嘉の城下町をさまよい歩く」。"佐嘉の化け猫"だ。
 このことに関わりをもつのかどうか、直茂はつぎのような言葉を残している。
「家と同じで名家も古くなると倒れる。その時はいさぎよう倒れるべきだ。倒れまいとすると汚ない(みにくい)倒れ方をする」。家だけではあるまい。人間の進退にもあてはまる。
(挿絵)大和坂 和可

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