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シリーズ:農協を創った人たちを訪ねて

2013.11.13 
【シリーズ・農協を創った人たちを訪ねて】[2]松下雅雄氏・JAはだの前代表理事組合長  組合員同士の結集が、農協づくりの出発点一覧へ

・父の世代の薫陶得て
・県内初の営農指導員
・生活、生きがい大切に

 農業協同組合法が公布されて66年。戦後、農村に農協を設立したころ、運動にはどんな思いで参加し、その後の農協づくりを進めたのだろうか。当時を知る人々が少なくなっていく今、「農協を創った人たち」の軌跡を辿ることで、日本農業と地域社会、そして農協運動の未来が見えてくると思い、とある農協人を訪ねた。

シリーズ・農協を創った人たちを訪ねて

◆父の世代の薫陶得て

松下雅雄氏・JAはだの前代理事組合長 農協を創ったのは父の世代ですから、私はその後姿を見て育ったきたことになります。
 記憶に残っているのは農業倉庫をつくるのに大人たちが労力も提供していたこと。壁土の材料を提供するだけでなくみんなで作業した。文字通り手づくりの農協づくりでした。それは今でもJAはだの東支所に「東秦野農協」という看板とともに残っています。当時は、農業会が今度は農業協同組合という名称になる、ここがその拠り所になるんだ、という気持ちだったと思います。
 ですから、出資するだけでなくみんなでつくろうと労力も出す。農協ができると、父は地域の生産組合長などもやって、とにかく農協へ農産物を出そうと呼びかけていました。そのころは米麦のほかにタバコや養鶏、酪農など多角的経営を進めようということでした。今、考えれば100年やっても持続可能な循環型の農業形態だったと思います。そこから生産されるいろいろな農産物を農協に結集させようということでした。
 その父は農協の理事などを務めることもなく百姓としての人生、一正組合員としての人生を全うした人でした。
 そんな時代に育ち、私は農協に結集することが地域を豊かにすることにつながる、ということを自ずと教えられてきたと思います。

◆県内初の営農指導員

「東秦野農協」設立当時につくられた農業倉庫。(JAはだの創立50周年記念誌より) 学校を卒業して父とともに百姓をやりながら青年団活動を熱心にやっていました。地域をよくしようじゃないかという活動で地域の農業振興のための情報交換の場でもありましたが、弁論大会や文化活動もありました。
 そこにあるとき農協の組合長がやってきて、今度、営農指導員というものを置きたいという。どんな仕事をするのかと聞いたら、A農家の技(わざ)を聞いてB農家に伝えればいい、でもC農家に行ったときにあまり聞いてくれないようならそれはそれでいい、というようなことだったのでそれなら自分でもできるかも、と農協に入ったんです。25歳でした。昭和36年、当時は秦野市東農協でした。
 後に分かったことですが神奈川県内の農協で最初の営農指導員だったようです。ですから先輩はいない。農業改良普及員や食糧事務所などと連携しながら仕事をしていました。
 時代は農業基本法が施行された頃ですから、それまでの多角的経営から選択的拡大へと変わっていくときです。
 そのころ、豚の預託事業に取り組みました。農協が豚を購入して農家に預けて肥育してもらう。出荷して販売すれば農協がきちんと精算して支払うという仕組みです。いわゆる農家経営を不安定にさせていた当時の豚小作の解消運動ですが、協同組合らしいものだったと思います。
 タバコの後作に何を作るかということではキュウリの産地化にも取り組みました。共選としての初の試みでした。集落のなかにキュウリづくりの人がいたのでそこから地域内に話を広げていったのですが、最初は共選にも抵抗感がありました。しかし、9月からの出荷産地として市場で評価されるようになって、産地として生きる道とはこういうことかとも思いました。

(写真)
「東秦野農協」設立当時につくられた農業倉庫。(JAはだの創立50周年記念誌より)


◆生活、生きがい大切に

 昭和40年頃には県も花きに力を入れ有利な融資制度もつくられましたから栽培する人も増え、なかでもカーネーションを農協が一本化して東京市場へ出荷しました。日本一の生産量になったこともあります。それから私たちの提案で花だけではもったいないので苗も売ろうと呼びかけました。こうした取り組みが実現していくなかで、農家からこれからはどんな作物を作ればいいのかという相談を受けるようになって、それで組合員と一緒に販路拡大方法まで考えたものです。努力すれば喜んでくれ、やり甲斐がありました。こうした組織活動というのは青年団活動が源になっているのかもしれません。
 営農指導員を8年、その後は教育広報課長です。単に広報課ではなくて教育がついていました。当時の組合長と専務の発案です。組合員教育という意識があったのだと思いますが、これが女性部の活性化などにつながったわけです。たとえば女性部が踊りの練習をしていたら、その発表の場をつくる。最初は尻込みしていた女性たちも生きがいを感じるようになったと思います。
 営農はもちろん大切ですが、やはり人間としての生活、生きがいというものを農協は大事にしなければならないということだと思います。そうした考え方を学んだのは、当時全中役員の一楽照雄さんとの出会いがあったらでもあります。そのころ2か月に1回ほど東京に訪ねていき、協同組合は会社とは違うんだ、ということを徹底的にたたき込まれました。
 生活も大事だという農協の姿勢は組合員から、ここまでやってくれるのかと評価されましたし、兼業農家も含め地域を発展させていくんだという考えになっていったと思います。
 JAはだのは組合員大学や子どもたちへの食農教育にも力を入れています。夏と冬の子ども村の参加者の7割は非組合員家庭です。農協の活動に地域全体が参加しているとも言えます。
 若い頃から、農協に結集を、と私は強調してきましたが、それは組合員と組合員が結集することなんだと改めて考えています。

【略歴】
(まつした・まさお) 昭和10年神奈川県生まれ。JAはだの前組合長。現在、秦野市観光協会会長、共存同栄ネットワーク代表、一般社団法人農協協会副会長。

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