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"昼行燈"の決断 大石内蔵助2015年11月11日

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【童門 冬二 / 歴史作家】

 昔は十二月といえば映画やテレビでの演し物で、”忠臣蔵”が定番だった。四十七人の赤穂藩士が主人の恨みを晴らすために一年余の苦労をしたのちに、仇の吉良上野介邸に討ち入り宿願を果す話が、何度みても大いに受けたのだ。このごろでは多少みる眼が変わってきた。

◆泰平の世の軍事職

・法を破ったのは赤穂浪士の主人浅野内匠頭ではないのか(江戸城内では刀を絶対に抜いてはいけない)
・浅野に斬られた吉良の重臣が、浅野家に報復に行くのならわかる。赤穂浪士の行動は逆恨みではないのか
 と、クールなみかたもある。しかし当時の法によれば、
・夜間江戸の町は通行を禁止されている。辻には必ず木戸(柵)が出ている。江戸全体が檻の町だ
・まして集団がしかも武装して歩くことなど絶対に許されない
・にもかかわらず当夜は木戸は出ていない。四十七人はスムーズに吉良邸に乱入し、吉良上野介の首をとり、堂々と隊列を組んで芝(東京都港区)の泉岳寺まで行進している
・これは市中取締りの権限をもつ者(それもかなり上層部)の黙認があったからにちがいない
・そうさせたのが浪士たちの忠誠心であり、イッキイッキ! にまで高まっていた浪士の報復支援の世論だったろう
と私は思う。そしてその原動力になったのが、浪士を率いた城代家老大石内蔵助の決断と、その後のリーダーシップだと考える。
 大石は浅野家の城代家老として"昼行燈"とよばれていた。昼に行燈はいらない。つまり"無用の存在"なのだ。これは大石が無能だからではない。このころの大名家(幕府も)の家臣は「番方」と「役方」に二分されていた。番方は軍事職で役方は事務職だ。
 城代家老は番方だから合戦がないかぎり仕事がない。ポストが"昼行燈"にしてしまうのだ。事務職家老の大野九郎兵衛のほうが忙しい。おそらく主人の浅野にしても大野にはせわになっても、大石とはあまり接触の機会はなかったろう。大石は浅野家(赤穂城内)では完全に浮いていた。平和な世の中ではどこの大名家でも、番方は給与泥棒の立場におかれたのだ。それが突然出番がきた。合戦とおなじ状況が藩をおそったからである。
・主人の浅野が江戸城内で刃傷事件を起した
・将軍綱吉は激怒し浅野は即日切腹、家は取潰し(ということは家臣は全員失業)
 ということになったからだ。報は早駕籠で江戸から赤穂にもたらされた。大石は即座に家臣を招集した。
 「どう対応すべきか」を評議するためである。激昇する感情論が渦巻く間は大石は黙っていた。怒号は議論にならないからだ。この時の藩士数は三百余名。石高は五万三千石だから多少多いかも知れない。全体会議は三日くらい続いた。議題も次第に煮詰まった。
 いや大石が煮詰めた。幕府から城受取りの上使がやってくるからである。時間的余裕がそれほどないのだ。カンカンガクガクの議論をいつまでもやっているわけにはいかない。


◆大石の決断への道

 大石は議論を整理した。かれの対応策はつぎのような案だった。
一 幕府に浅野家の再興を願い出る。再興時の藩主は切腹した浅野の弟大学とする。
二 このことは、城受取りの上使にも嘆願する。場合によっては大石ほか有志が切腹して嘆願する。
 激昇時の意見には、
「城は渡さぬ。全員籠城して上使と一戦かまえよう!」という勇ましいものもあった。しかし一日経ち二日経つうちに、このヤケクソ論は消滅した。大石のいう冷静な再興論に傾きはじめた。しかし、
「そんなことはありえない」と、状況に見切りをつけて「こんなことは自分で考える」と、家族を連れて退職する者も出てきた。そうなると、
「退職金をくれ」といい出す者も出る。事務家老の大野も、
「それが先決だ」といい出す。しかし大石は「いや藩札の処理が先だ」と突っぱねる。藩札というのは、藩が生産者から生産物を買いあげるときに使う、藩内だけで通用する貨幣で藩はいずれ正札(幕府発行の貨幣)にかえなければならない。藩の負債だ。大石はその返済が先だというのだ。
 大石に同調する良識的な藩士の協力で、藩札は「六割の返還」でおさまった。対象者は塩の生産者が多かった。大石はホッとした。
しかしこの、
「武士よりもまず債権をもつ住民への対応」
 を優先させた大石の決断は、領民たちにひじょうな好感を与えた。実をいえば大石は幕府の空気を情報で知って、
「お家の再興などとても実現できない」
と感じていた。そして、
「その時は」とひとつの決意を固めていた。再興願いを幕府に提出したが対応はケンもホロロだった。次期藩主にと願った浅野大学は「謹慎を命ずる」と逆に罰を受けてしまった。再興の夢は消えた。藩士たちへの退職金の率も大石は、
「上にうすく下に厚く」
 と主張して実務は大野たちにまかせた。大石自身は辞退した。城受取りの上使にも丁重に接した。
「赤穂城の家臣共が一戦かまえている」
 という報を真にうけた上使たちは、武装してやってきた。かれらも合戦覚悟だった。しかし落ちついてカミシモ・ハカマ姿の大石たちに上使は関心した。
「再興願いをわれわれからも取次ごう」
 といってくれた。大石は礼をいったがアテにしてはいなかった。結局は総員退去という時になって、大石はもう一度残存藩士を集めた。六十数人いた。大石ははじめて、
「吉良殿の御命を頂戴する」
 と自分の決断を告げた。全員賛成した。誓書が廻され、一人の漏れもなく署名血判した。以後この人数から脱落者(死亡も含め)が出るが、最終的に四十七人残ったというのは、相当高い率だと思う。結束が固かった。
 それも大石の"最終的な決断"へ至る道程が、かなり慎重で思慮深いものだったからだ。浅野家にかぎらず当時の大名家(藩)の家臣はつぎのように分れていた。
 A 領地(国許)で生れ、城へ勤務するだけで参勤で江戸へ出たことがない者
 B 領地で城に勤務しているが、参勤で主人の供をして江戸に出、交代でまた主人の供をして領地に戻っていく者
 C 江戸で現地採用され、江戸邸に勤務して領地へは一度も行ったことのない者
 さらに主人浅野との関係でいえば・特に愛された者・嫌われた者・あまり主人に関心なく仕事だけに打ちこんでいた者など、いろいろある。
 大石はこれらを"吉良への報復"という一点に集中させた。そのリーダーシップはみごとだ。事件発生直後の将軍の浅野家処分は性急であり過酷に過ぎた。「ケンカ両成敗」の世論は次第に高まった。綱吉も考え直した。討入り当夜の黙認は、おそらく綱吉の腹心柳沢吉保の考えだろう。世論はそれほど大きな力だったのだ。


童門 冬二 歴史作家
(どうもん・ふゆじ)1927年東京都生まれ。45年東京都庁に勤務。知事秘書、政策室長などを歴任。1960年第43回芥川賞候補。79年退職し作家活動に専念。99年春の叙勲で勲三等瑞宝章を受章。日本文芸家協会・日本推理作家協会会員。JAマスターコース塾長。

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