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コラム:小説 決断の時―歴史に学ぶ―

【童門 冬二 / 歴史作家】

2016.01.12 
文化立国はふたつの決断 前田利家一覧へ

 前田利家は加賀百万石の祖だがなかなか複雑なリーダーだ。幼名を犬千代といったので、主人織田信長から「イヌ、イヌ」といってかわいがられた。いまでもそうだが、上役が部下を愛称やあだ名でよぶのは、それだけ相手に心をゆるしている証拠だ。信頼がなければそんなことはしない。

◆第一の決断

 信長は青年時代からよく尾張(愛知県)の城下町を歩きまわって、他国からきた人と接触した。その時に必ず利家に供をさせた。利家はこの経験で、
「戦国に生きる武将にも経済感覚が大切だ」
 ということを学んだ。天下統一をめざす信長は日本各地に織田家の重臣を派遣した。北陸方面には柴田勝家を司令官とし、利家・佐々成政・不破光治の三人を与力として支配に当らせた。与力というのは補助者のことだが、信長は柴田を信用していなかった。だからこの話の与力というのは"目付(監視役)"だ。その証拠に信長は利家に、
「権(ごん)(勝家の名が権六なので)をよく見張れ。オレ(信長)にそむくようなおこない、たとえばオレの城(岐阜城や安土城)に、権が足をむけて寝るようなことがあったら、すぐ報告しろ」などと命じている。信長の偏執狂的性格をよく表している。
 やがて信長は天下人になるが利家に対しては一向に中央へのお呼びがない。現在でいえば地方から本社への復帰だ。しかしそんなことをいちいち口に出して訴えるような利家ではないから、黙っていた。胸の中では、
(柴田殿と北陸の地に置き捨てられるのか)
 となげいた。そして本社復帰の命がないままに、信長は明智光秀に殺されてしまった。信長のあとを狙ったのが羽柴秀吉だ。勝家や利家のはるか後輩だ。異を唱える勝家は秀吉との決戦を企てた。そして利家に、
「味方してくれ」
 と頼んだ。利家は窮地に立った。秀吉は可愛い後輩だ。妻同士も姉妹のように仲がいい。しかし勝家にはとくべつな恩があった。
 利家が尾張で信長の側近だったころ、十阿弥という茶坊主がいて信長の寵童だった。それをいいことに、"トラの威を借るキツネ"的に、織田家の人事にいろいろ口を出した。ワイロも取った。
「あいつは君側の奸だ」
 と怒る者が沢山いた。血の気の多い利家はその代表として、ある日十阿弥を斬殺した。信長は怒り、
「犬を殺せ」と重臣に命じた。この時、
「いや、それはなりません! 利家は織田家のためにはぜったい必要な武士です」
 と必死になってかばってくれたのが勝家だ。信長も仕方なく利家の命を助け、追放刑にした。この時利家はつぎのように語っている。
・人間の本心は落目になった時によくわかる
・オレ(利家)が追放された時、ほとんどの人間がオレに背を向け去った。悪口をいい、ののしる者もいた。
・その中で柴田勝家殿だけがオレをかばい、信長様に職場復帰を願いつづけてくれた
 事実、勝家の根気づよい懇願によって利家は桶狭間の合戦を機に、再び信長の側近に返り咲いた。したがって勝家は利家の"命の恩人"であり、"織田家への復職の恩人"でもあるのだ。
「その柴田殿に味方するか、それとも弟のように可愛がってきた秀吉を助けるか」
 利家はこの二者択一に苦しんだ。決断の時に見舞われたのである。


◆第二の決断

前田利家挿絵 この時の利家の決断は秀吉に味方した。秀吉の先鋒として北の庄城(福井県福井市)を攻撃した。勝家は無念の涙をのんで妻のお市(信長の妹)とともに自決した。利家の心には生涯消えることのない深い傷が残ったことだろう。
 しかし、にもかかわらず天下人となった秀吉も利家を中央には呼ばなかった。北陸の地(金沢や能登など)にそのまま単任した。
(なぜだろう?)
 さすがに利家は悩んだ。
(能力をくらべてもオレは秀吉にそれほど劣っているとは思えないが)
 妻のまつにこのことを話した。まつは笑い出した。こういった。
「天下人には別な能力が要るのですよ」
「どんな?」
「秀吉殿のように、腹にもない見えすいたことがいえますか?」
「いえない」
「バカになって皆さんの太鼓持ちになれますか?」
「なれない」
「ホラごらんなさい。もともと無理なのです。天下人などめざさずに、あなたはあなたらしく生きぬけばよいのです」
「オレらしく生きるとは」
「文化です。この架空の国に住む人びとのために文化の種を蒔き、育てることですよ。信長様はすぐれた政治家であると同時に、すぐれた文化人でもありました。ですから政治は秀吉殿にまかせ、あなたは文化のほうを分担すればよいではありませんか(現代風の発言にすれば)」
「......」
 利家は考えこんだ。自分の進路をきめる"第二の決断"を迫られたからだ。これは治国方針の決定だ。加賀を政治の国にするのか、それとも文化の国にするのか、という選択だ。利家は決断した。
「文化の国にしよう」
 文化立国、これがかれの治国方針であった。そしてこの方針は歴代の藩主にひきつがれる。とくに五代網紀の時には、名産品である諸工芸品が"百工比照"と讃えられ、また古書のコレクションが"日本の書府"といわれた。
 北陸新幹線が開通して以来、金沢を訪れる人は多い。古い気質を持つ金沢人は、
「金沢は観光都市ではありませんよ」という
「では何ですか」ときけば、
「文化都市です」
 と胸を張る。かつては、
「金沢では上から謡曲が降ってくる」
 といわれた。屋根の上や木の上で仕事をする職人が、多く宝生流の謡曲を習っていたからだ。
 その淵源はすべて前田利家にある。信長という希代の英傑の側近でありながら、天下事業の仕上げの時期に、いわば、
「管理中枢機能に参画させられなかった」
 という、見様によっては"左遷された"とも思われる人事に遭遇した利家の心理は、かれがこまやかな心情の持主であっただけに、いろいろな葛藤があっただろうことは、容易に推察できる。このへんは信長に、
「なぜ利家をそばで使わなかったのですか」
 ときいてみたい。
 さらに信長の後継者秀吉も同じだ。秀吉が晩年になって利家を「五大老」のひとりとして大坂城に招いたのは、決して利家の政治能力を評価してのことではない。
「あとつぎの秀頼を安心して預けられるのは、利家以外いない」
 という秀吉なりの人間判断によるものだ。死ぬまぎわになって、秀吉もようやく利家の美徳を思い出したのだ。利家は合戦の時に必ずそろばんを持参した。合戦戦場で軍費を計算した。金の足りない大名には融通した。必ず借用証を取った。
 しかし死ぬ時に、これらの借用証は全部燃やしてしまった。これもかれの一本筋の通った"カルチャー精神"だったのだ。

(挿絵)大和坂 和可

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