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特集:JA全国女性大会特集2016

2016.01.25 
【エピソードで綴るJA女性組織】輝く未来へ 一歩踏み出す勇気を持とう!一覧へ

農業を守り育てた女性たちの足跡
文芸アナリスト 大金 義昭
・「自分史」をひもとくということ
・時代を動かすマグマの底力
・組織を支えるそれぞれの志
・「原点は明るく」ふくらむ希望
・ふり返れば未来が見えてくる
・元気や本気、勇気は伝染する!

 懸命に生きてきた自分の想いを次の時代の人たちに伝えたい。特に農村で人間らしい生き方をもとめ、真摯に社会と向き合ってきた女性にその気持ちが強い。そうした女性たちが残した「自分史」が、いま、多くの女性の未来にとって貴重な道しるべになっている。文芸アナリストの大金義昭氏が農業・農村を舞台に活躍した女性の生き方をエピソードで綴った。

◆「自分史」をひもとくということ

著者の大金義昭氏 だれが何の目的で組織をつくり、どんな生き方や活動を積み重ねてきたか。個人や組織の「自分史」をひもとき、心の軌跡や足跡を確かめ、志を次代に引き継ぐ手法のひとつに、年史編纂の取り組みがあります。
『練馬の農業を支えた女性たち』(農文協)もそのひとつ。JA東京あおばに合併する前の練馬農協が、平成十一年に刊行しました。もう十七年前になるんですね。冒頭に、編纂委員長を務めた保戸塚節子さんの言葉があります。

保戸塚節子さん 「練馬の田畑も、屋敷の森も、川の流れも、農家の暮らしの場であり、女性の仕事の舞台でした。(中略)嫁として、妻として、母として、姑として家族をはげまし、農家の女は野良で泣く・・・・(中略)戦争や近代社会の激しい変動の中で、苦労に耐えながら練馬を支えて(中略)生きてきた歴史を、得がたい財産として大切に引き継いでいきたいと思います。」

 取材にあたったのは、女性部員の仲間たち。加藤源蔵さんをはじめとする関係者の力を得て、明治・大正・昭和・平成を生きた女性の足どりを、聞き語りで丹念に綴りました。
 「鹿島家の畑ではビール麦や大根、ごぼうなどをつくりました。麦と麦との間にごぼうまくんですが、その時、だれもが嫌がる、人糞を混ぜただら肥(だらっこい)という肥料を肥担桶(こえたご)で運んで、手でまくんです。それが嫌で嫌でしょうがなかったです。私は汚れないように南京袋をそれこそ腰巻のように巻いてね、それでふりこい(振り肥)しました。だからね、ごはんなんかをとぐのには左手を使います。だら肥は右手でまくから、いくらきれいに洗ってもねえ。(鹿島タイさん)」

『練馬の農業を支えた女性たち』(農文協) ご存じの通り、農家は江戸時代から自宅や街場の人糞を肥料にして活用しました。その貴重な資源リサイクルにより、江戸・東京が世界でも稀に見る衛生的な都市として守られてきた歴史があります。『練馬の農業を支えた女性たち』には、二八名が登場。それぞれの「自分史」を率直に語っています。顔を見知った地元の女性部員が取材しているからでしょうね。

「ふり返れば未来」という言葉があります。過去・現在を正しく認識し、未来づくりに役だてる、という意味合いです。韓国や中国などアジアの人びととの交流を大切にした加藤源蔵さんは、JA東京中央会長などを歴任し、女性の地位向上にも深い理解を示しました。その確固たる観点から、加藤さんは「女性たちの汗と涙と喜びを記録にまとめることができた」と手放しで喜んでいます。
 保戸塚節子さんは、竹を割ったように明快な物言いが魅力的なリーダーでした。保戸塚さんがJA東京女性組織協議会長を務めていた平成十五年度の「ママさん大学」に講師として招かれたことがあります。その年の会場は福島県の磐梯熱海温泉で、会沢テルさんが会長を務めるJA福島女性部協議会との大がかりな交流会が印象に残っています。行動力のある女性同士の交歓は熱気に溢れ、圧倒される思いでした。


◆時代を動かすマグマの底力


『生き甲斐を農に求めて~苦難に耐えた主婦の記録』「自分史」をひもとく事例では、栃木県農協婦人部協議会が結成三十周年を記念して昭和五十八年に発刊した『生き甲斐を農に求めて~苦難に耐えた主婦の記録』が圧巻です。四〇〇ページを超える大作でした。巻頭に、作家の藤原ていさんが次のような文章を寄せています。
 「なんといい本ができ上ったことだろう。一篇一篇を読んでいて、胸が熱くなって来た。それは、それぞれが、自分で苦労しながら、農業を守り育てて来た体験を、たくまず、気どらず、素直な筆で書き込んでいるからであろう。
 私もかつて、このように働いて来た。日向の黒土のぬくもりへ、キャベツの苗を一本一本大切に植えつけながら、どうか丈夫に大きく育ってくれますように、と、それは祈りにも似た気持であった。」
 藤原さんは夫を一時中国に残し、子供連れで引き揚げてきた苦難の体験をもとに、小説『流れる星は生きている』(日比谷出版社)を発表し、ベストセラーになりました。夫の新田次郎さんは、のちに山岳小説や時代小説の大家として知られるようになります。
 藤原さんの講演は、JA女性組織から引っ張りだこの人気でした。家の光協会で講師斡旋業務を担当していた若いころ、しばしば依頼の電話をかけ、毎々快く引き受けていただいた明るい声が耳に残っています。家の光協会では以前から、夫の新田さんに「地上文学賞」の審査委員をお願いしていました。ある年のホテルの審査会場で、「女房をあまり引っ張り出さないでくれ。落ち着いて小説が書けん」と、本気とも冗談とも取れるような話題が飛び出したこともあるくらいでした。
 藤原さんが推奨した『生き甲斐を農に求めて』には、地を這うように戦中・戦後を生き抜いた女性の肉声がひしめいています。
 「三〇年前の私の生活をふり返る時、何を思い何から語ればよいか、あまりにも激しい急流の中で思いはあふれ、ペンはとまどうばかりです。娘時代の教えは、「幼くしては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うべし」という三訓でした。そして当時は家と家との結婚という時代に、嫁ぐ前の母の教えは、『辛抱』という一言でした。一にも二にも辛抱である。たとえ白いものを黒といわれても、ゴモットモと仕えるべきで、親や弟妹は一生ついてはいない、主人となる人が大切であり、その人を信じて辛抱という字で家族に仕えるよう教えられて嫁いでまいりました。農家に生まれながら農作業は何一つできない私でしたが、一生懸命働きました。
 嫁は一つの労働力であり、手と足で働く時代、きつい仕事は嫁の役割、夕方になればクタクタに疲れて帰る毎日の生活でした。(塩沢まさ江さん)」
 記念誌の執筆に賭けた仲間の思いを、栃木県農協婦人部協議会長であった片柳コトさんが次のように代弁しています。
 「ここに書かれたものは、ただ黙々として歯をくいしばって生きて来た農家の主婦の苦しみ、なやみであり、精一杯耐えて前途に何らかの希望をいだきながら成し遂げて来た自らの記録です。五〇を過ぎ六〇を過ぎた主婦が生まれてはじめてペンを持ったと思われる文章なのです。(中略)そのたどたどしい判読にも苦しむような文の中から、体験した人でなければ言えない、涙の真実がのべられているのです。」
 懸命にペンを走らせる女性の姿は、一歩踏み出した勇気の現れでした。JA女性組織が秘め持つ底深いマグマのような力を感じさせます。

◆組織を支えるそれぞれの志


 暗くて長いトンネルを抜け出すために、「自分史」は大きな役割を果たします。JA全国女性組織協議会の前身が、昭和四十七年に上梓した『全農婦協二十年史~農村婦人と農協婦人部の歩み』もそのひとつです。貴重な歴史資料として欠かすことのできないこの年史の編集に携わったのは、高城奈々子さんでした。高城さんは全国農協中央会に所属し、上司である宮川清一さんのもとで全国農協婦人組織協議会の事務局員を務めていました。高城さんには、その十年後の昭和五十七年に刊行された『婦人と農協』(日本経済評論社)という著書があります。この著作も、往時を検証する稀本として欠かせません。
 『婦人と農協』は、高城さんが四十六歳の若さで急逝した後に世に出ました。「協同組合叢書」として執筆の途上に遺した原稿には、「こんにちは そして 半分、さようなら」といった遺稿も含まれていて、高城さんの思わぬ死を予言していたかのようでした。高城さんと懇意にしていた農林中央金庫の荷見武敬さんなどが、その遺稿をとりまとめ、日の目を見ることになります。「序に代えて」の末尾で、評論家の丸岡秀子さんが次のように記しています。
 「あなたの突然の死を旅先で知り、かけつけることもできませんでした。あなたの燃えつくした志は、必ず全国の農村婦人のこれからに生きる灯となることでしょう。生活は低く、志の高かったあなたを偲ぶことの多い今、秋です。」
 東北新幹線(大宮~盛岡)や上越新幹線が開業した年の秋のことです。太縁の眼鏡の奥の理知的な眼差しや天井の低い旧JAビルの事務所で「お元気?」などと声をかけられた光景が、高城さんの思い出としてよみがえります。

◆「原点は明るく」ふくらむ希望


 評論家の丸岡秀子さんは、戦後の女性解放や地位向上を願う農村女性の精神的な支柱ともいえる存在でした。丸岡さんは二六歳で相愛の夫を失い、忘れ形見の女児を抱えながら産業組合中央会の農村調査に奔走します。その成果が『日本農村婦人問題~主婦・母性篇』(高陽書院)に結実します。反響を呼んだこの著作は、戦時色が濃くなる昭和十二年に、農村女性の生活実態をありのままに報告し、国家が農村を支配する過酷な現実を浮き彫りにします。この国で初めて農村女性の実態を描いた「勇気ある書」でした。
 その後、再婚した夫と中国に渡り、引き揚げ船で帰国した戦後は、平塚らいてう・深尾須磨子・山川菊栄・市川房枝・奥むめお・羽仁説子・鶴見和子など多彩な女性活動家との交流を深め、農村・女性・教育など幅広い分野で実践的な評論活動を繰り広げます。
「私のなかの婦人問題は、いつも農村につながりました。原点は、農村なのです」と唱えた丸岡さんの農協婦人部に対する思い入れは、また格別でした。全国農協婦人組織協議会が平成元年に制作したパンフレット『おんなたちの出発(たびだち)』に寄せて、丸岡さんは「原点は明るく」と、次のように励ましています。
 「いま、婦人にとってたいせつなことは、家族や地域の幸せを実現するために、婦人の責任や要求をみんなでいっしょに担っていくことです。(中略)なにもむずかしいことではありませんが、現実にはそれがなかなかたいへんです。女性の自覚は、男性の自覚。農家の婦人が動けば、社会も動く。半世紀を超えるみなさんとのかかわりのなかでも、いまがとりわけだいじな時機~明るい希望は、農業を守るという一点で、むしろふくらむばかりです。」
 小柄でいつまでも若々しく、優しさが陽だまりのような丸岡さんを貫く芯の強さこそ、まさに農村女性のものでした。

◆ふり返れば未来が見えてくる


 「自分史」をひもとき、農協婦人部の組織固めに取り組んだ活動のひとつに、「劇映画自主製作特別運動」があったことは、ご存じですよね。このとき完成したのが、映画『荷車の歌』(昭和三十四年)でした。ご覧になったことがありますか。山代巴原作・山本薩夫監督作品のこの映画は、三二〇万人いた当時の女性部員が、一人一〇円ずつ持ち寄って製作資金を集め、完成までに足かけ三年かかりました。現金の代わりに、米や卵、わら束、新聞、雑誌などを現物出資する部員も少なくなく、大きな山を動かすような取り組みでした。
 全国農協婦人組織協議会の会長を務めていた神野ヒサコさんの手記『虹よ永遠に~農協婦人部とわたし』(家の光協会)に、次のようなくだりがあります。
 「アメ玉一個の値だんでも、一人一人の部員が自分の財布からお金を出して、これを積み上げてくるのは、たいへんなことでした。この資金カンパは、ただカンパを受けるだけではなく、その時お金を出した人の名簿を二通作って、一通は各都道府県の組織に、さらに一通は全国組織にお金といっしょに提出するという組織の名簿づくり~強化と点検もふくまれているのです。
 映画ももちろんですが、この名簿づくりは非常に重要なことです。日本に数々の婦人団体があるが、自主的に三二〇万という個々の会員の名簿をかかえている団体は少ないのではないか、これが遂行できたら『えらいことだ』と思いました。」
 映画は、望月優子さん扮する主人公のセキを中心に、三國連太郎・岸輝子・左幸子・奈良岡朋子など錚々たる脇役を配し、明治・大正・昭和を生き抜いた農村女性の艱難辛苦の半生を描きました。その感動は、いま見ても変わらない名作として語り継がれています。
 平成二十七年には、『家の光』七~九月号に連載された「漫画で知ろう! 汗と涙で築いたJA女性組織の歴史」のなかでも触れられています。「富士山が見えるところで生まれ育った」という漫画家の富士山みえるさんとのコンビで連載を監修させていただいたこのシリーズも、戦後三代にわたる女性の主人公の視点からひもといたJA女性組織の「自分史」でした。

◆元気や本気、勇気は伝染する!


 さて、敗戦後に誕生した農協婦人部が真っ先に取り組んだ活動のひとつが、「生活改善運動」でした。農家は当時、想像以上に貧しく劣悪な暮らしを余儀なくされていました。その矛盾をだれよりも過酷に、衣食住ぐるみ強いられていたのが女性です。このため、農協婦人部は農協や行政の指導のもと、「生活改善運動」の積極的な推進母体になり、家族計画や衛生知識の向上、食生活の改善、生活購買事業などに真剣に取り組みます。懸命になるだけの切実な現実が、女性にはあったということですね。
 加えて、女性の心身は大きな悲鳴をあげていました。満身創痍の「農夫症」は当初、「農婦症」と記述されました。その後の臨床的な調査から、頭痛・肩こり・腰痛・多発神経痛・腹はり・腹痛・便秘・手足のしびれ・どうき・息切れ・倦怠・無気力・めまい・耳鳴りなどの症状が注目され、農民に固有の症候群として「農夫症」という名称に定着します。
 かくて、「農民と共に」を合い言葉に、世界の農村医学を牽引する長野県厚生農協連・佐久総合病院などが、若月俊一さんや松島松翠さんを中心に、女性患者の実態を介して農協婦人部との深い交わりを結ぶようになります。『農村医療にかけた30年』(家の光協会)のなかに、若月さんはこんな言葉を残しています。
 「かつて農民が百姓と呼ばれた時代には、農民に健康というものはなかった。生まれる時すでに「間引」かれる運命が待ち、年老いてからは「うば捨て」される封建社会の中で、健康という発想があろうはずはない。(中略)ごく近年になって初めて農民が、人間の名において自ら健康を論ずるようになった。とくに主婦農業の母ちゃんたちである。これはたいへんな歴史的事実である。人間回復のルネサンスにも匹敵するといえよう。(中略)今日、農協婦人部などで「健康をまもる」運動がしれつに展開されているのは、むべなるかなと思う次第だ。」
 昭和四十七年に記している「農協婦人部の願い」からの抜粋です。若月さんがこの文章をしたためてから、はや四十数年。戦後、いち早く誕生したJA女性組織なら、まもなく古希を迎える時代に差しかかっています。この間の目もくらむような時代の変化に晒されながら、たくましくしなやかに歩んだJA女性組織の足跡は、まだ見ぬ未来へ続きます。
 輝くその未来を切り拓くために、JA全国女性大会が意義ある成果を収めてほしい。農産物自給運動に始まる直売所の開設やファーマーズマーケットの目を見張るような展開、地産地消や食農教育、環境保護や高齢者介護・福祉、六次産業化など、どれをとっても実はJA女性組織の身近な活動から広がり、今日に至っています。その事実と実績に、女性がもっと自信や誇りを持ち、新しい挑戦を重ねていってほしいと思います。

(写真)著者の大金義昭氏、保戸塚節子さん

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