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その昔の近隣の助け合い-ゆい・講-【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第285回2024年4月4日

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手労働が中心だったその昔(1960年代以前)の農家の生産は、家族総ぐるみの労働によって維持されると同時に、近隣の農家の結い、手伝い等によって補完されていた。

たとえば自分の家の田植えや稲刈り作業が終わると、まだ終わっていない農家に手伝いに行き、適期に終わるように助けてやる。当然それにはお返しがあり、自分が人手が足りなくて困っているときに手伝いに来てくれる。これは「結い(ゆい)」と呼ばれた。なお、この手伝いにお返しをすることを「手間返し」と言うところもあった。

ただし、病人などが出たりして労力が不足した農家に手伝いに行くなどというときは、そうしたお返しはない。いつか自分の家がそうなったときは手伝ってもらえるからお互いっこなのでそれでかまわない。これは「手伝い」と呼ばれた。

こうした生産面だけでなく、こうした相互扶助の他に、牛を飼育していない農家の耕起を畜力でやってやるかわりに田植えの手伝いに来てもらうというような異なった作業の交換をする「手間替え」があった。

地域によりこの呼び方や内容は違っている(たとえば結いを「よい」とか「ゆいっこ」と言ったり、むらぐるみの共同作業への出役も含めて結いと呼んだりするところもある)が、ほとんどどこの地域にも近隣の農家がお互いに手伝いあうという慣習が存在していた。
当然こうした労働は無償である。一種の労働交換による助け合いだからだ。

しかし昼飯、夕飯は御礼の気持ちとしてごちそうする。
私の山形の生家の例で言うと、夕食のとき手伝ってくれた人の家に、わが家で夕食をとるために来てくれるよう呼びに行くのは私たち子どもの仕事だった。

「おばんかだっす(今晩は)、ごはんだがら(ご飯だから)きてけらっしゃいど(来てくださいって)」

しかしそう言われてもすぐには行かない。すぐにごちそうになりに行って「えやす」(「いやしい人」「さもしい人」)と思われるといやだからである。遅れていくのがエチケットである。二回目の迎えに行くとようやく家に来る。

次の日の仕事もあるから、酒(どぶろく)はコップ二~三杯くらいにしてご飯となる。ご飯のお代わりのときには自分からお代わりをくれとは絶対に言わない。そこの家の人から「お代わりしてけらっしゃい(ください)」と言われたときに初めて茶わんを差し出す。しかもその茶わんの底には必ずちょっぴりご飯を残しておく。遠慮しているという気持ちがわかるように、がつがつ飢えている、「えやす」だなどと思われないようにだというのだが、もうお腹一杯というときには全部きれいに食べる。そうするとお代わりはもう要らないということがわかるが、ごちそうする側は一応お代わりを勧め、される側は「たくさんだっす。ごっつぉうさんでしたっす」と頭を下げ、食事は終わりとなり、お茶が出てくる。これが食事のときのエチケットだった。

このような近隣の助け合いは、生産面においてだけでなく、生活面でも必要とされた。
生活面でも、たとえば屋根葺きのように多くの労力を要する場合にも近隣の人の「結い」が大きな役割を果たした。

葬儀のときも近隣の協力と助け合いが必要不可欠だった。現在のように葬儀屋はないからである。いうまでもなく葬儀の準備にはかなりの人手が必要である。土葬の時代などはましてやである。電話や車のない時代なので親戚縁者への不幸の知らせも大変である。だからと言って、悲しみに打ちひしがれている家族や親戚が葬儀一切を取り仕切ることはできない。それを近隣の農家がやってくれる。
しかし近隣の農家だけでは足りない。それを補う組織が「講」だった。

この組織の形態・内容は地域によりかなり異なり、呼び名もいろいろだった。

私の生家のあった地域では、隣近所の5戸からなる五人組が中心となって葬儀を取り仕切り、それに若干離れてばらばらに位置している農家五戸で構成される講(「契約」と言っていた)が葬儀の具体的なことをやるというようになっていた。隣近所の場合は不幸のあった家のさまざまな手伝い等で忙しいので、そこから離れている契約講のメンバーが土葬の準備等、近所の家でなくともやれるものを手伝うという形にしていたようである。

宮城県の南郷町(現・大崎市)に行ったとき、大正講とか昭和講とかいう名前にぶつかって驚いたことがある。昔からある講にはなかなか入れないので、分家したり移住してきたりしたものがいっしょになって新しく講をつくらざるを得ず、その移住や分家の時期の名前を講の名前としたというのである。だからこの村の講の家々は近隣というよりかなりばらばらに位置していた。

古川市(現・大崎市)のある集落の調査をしたとき、その共同墓地にカタカナのキのような不思議な印をつけた墓石があった。それはハリストス教(明治期にロシアから伝わったキリスト教の一宗派)徒の墓であり、信者の農家が二戸あるという。この二戸は普通の農家と同じように講に入っており、葬儀のときは近隣の農家といっしょに手伝いあっていた。他のことは別として、不祝儀などのようにどうしても協力が必要なものは宗教宗派を問わずお互いに助け合ったのである。

このように宗教宗派はどうあれ、貧富の差はあれ、ともかくすべての農家が協力しなければ生きていけなかった。近隣の相互扶助があって始めて農民の暮らしは成り立ったのである。だから、こうした関係をこわすものには厳しかった。たとえば年一度の講の集まりにはどんなことがあっても必ず出席しなければならなかった。もし欠席などしたら除名され、暮らしが成り立たなくなった。

福島県会津の南郷村(現・南会津町)には、血縁・近隣関係による援助のしかた(義理の果たし方)に関する決まりがあった。

1978(昭53)年、栃木県と接する山間地帯にあるこの村は、夏秋トマトを導入して南郷トマトというブランドを形成し、過疎化に歯止めをかけ、減反をうまく活用したということで有名な地域だったが、そのとき調査対象にした鶇巣(とうのす)集落(当時69戸)で、二升仁義、一升(注)仁義、五合仁義という血縁・地縁の濃淡による三種類の助け合いのルールがあったことを聞いた。

まず、「二升仁義」であるが、これは兄弟とか親類など血縁のもっとも濃い関係にある間柄なので、こ相手に何か不幸なことなどどがあると米二升を持ってお見舞いすることになっている。米一升というと安いと思われるかもしれないが、その昔の米はきわめて高価であり、こうした米そのものもしくはそれに相応する労働か金品を提供して何かのときに助けあったのである。

次の「一升仁義」は地縁関係のもっとも強い「隣保班」(近隣5~7戸)内でのことで、この間では米一升、あるいはそれに相応する援助をする。

こうした関係にない集落内の農家、つまりむらうちは「五合仁義」となり、米五合分の援助をする。
なお、二升仁義も代が替わると一升仁義となる。つまり血縁関係が薄くなると助け合いの義理も少なくなるのである。

また、冠婚葬祭のときは一升仁義の関係にある農家が二升仁義の農家といっしょに手伝ったという。

こうした決まりをつくったのは、相互扶助での義理を欠いたとかやりすぎだとかでむら内でごたごたが起きないようにということからなのだろう。
なお、今言った「隣保班」は江戸時代のいわゆる五人組のようなものだったらしく、戦時中は隣組となり、われわれが調査に入った頃は納税組合の下部組織となって税金の徴収をしていた。
それから、屋根の葺き替えのときには三つの隣保班で構成される「坪」が無尽のような形で手伝うという決まりがあった。この坪は部落有林の管理の単位ともなっていて「坪寄り合い」という会合もあり、この坪に属するものは「坪付き合い」と言われるような相対的に緊密な関係にあったようである。

ここまできちっとした決まりをつくっていたかどうかは別にして、地域の自然的社会的歴史的諸条件に応じてつくられた暗黙の相互扶助のルールがわが国のほとんどの集落にあったのである。

(注)言うまでもないとは思うが、一升とは容積を図る単位で1.8リットル。一合はその10分の1である、また、米について言うと、米の60kg=一俵=4斗=40升である。

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