国難を機に連合政権を構想 阿部正弘2016年10月13日
◆ ペリーに対する阿部の対応
嘉永六(一八五三)年六月三日の夕刻に、江戸湾の入り口である浦賀(神奈川県横須賀市)沖に、四隻の黒船があらわれた。まるで黒い山が海にそそり立つような威圧感を見る者に与えた。落首(世情諷刺の歌)が詠まれた。
「太平の眠りをさます蒸気船 たった四杯で夜も眠れず」
というものだった。当時上喜撰という銘茶があった。四杯も飲むと興奮して眠れないので、この銘茶と黒船とに引っかけたのである。黒船を率いて来たのは、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーだった。フィルモア大統領の特使として日本にやって来た。この時のアメリカは、イギリスに次いで産業革命に成功し、その市場を清(当時の中国の国名)に求めていた。そして、太平洋に定期航路を設定したいと考えていた。ところが太平洋は広い。清に着くまでにどうしても燃料・食料などの中継地が必要だった。物色した挙句、
「それはジャパンだ」
と決定したのである。ペリーがやって来たのは、そのための中継地として日本の港を開いてもらいたい、という大統領の希望だった。
日本側の最高責任者は幕府老中筆頭の阿部正弘である。備後(広島県)福山十万石の殿様だった。若い時から賢明の噂が高く、二十代ですでに老中(閣僚)に列していた。ペリーが来たときは三十五歳である。この国難に際し、阿部は思い切った決断をした。それは、
・日本政府の外交責任者である徳川幕府の大改造を行う
・それにはまず老中の構成を、従来の譜代大名の他に外様大名も加える
・加える外様大名は、大洋に面して領地を持つ大名とする。たとえば、太平洋でいえば薩摩藩の島津家・伊予(愛媛県)宇和島の伊達家・伊達家の本家である仙台の伊達家・玄界灘に面する佐賀の鍋島家・日本海の中央に面する越前福井の松平家などである。
・幕府内部の改革を行う。外交と海防の専管セクションである「海防掛」を中心に、外国事情を情報としてもっと収集するような機能を強化する
・そのために、身分を問わず有能な人間を抜擢する。これは、外様大名の家臣であろうと、あるいは町人の身分であろうと問わない
そして何よりも阿部が、
「その前提として、この国難を日本国民全部に周知しよう」と考えたのが、ペリーが持って来たフィルモア大統領の国書だった。阿部はこれを日本語に訳させた。そして譜代・外様・直参・陪臣の別なく、全武士に配った。さらに、一般にもこれを撒いて、
「意見を述べてほしい」
と告知した。今でいえば、
「情報公開と国政への国民の参加を求めた」
ということである。
◆惜しかった阿部の急死
しかしその反応は鈍かった。特に二百五十年の泰平に慣れた大名たちはそれどころではなかった。泰平ではあったが、足元の領地で農民が長年の負担に耐えかねて一揆を盛んに起していたからである。したがって阿部への返書はほとんどが投げやりだった。身に染みたものは少なかった。大名は譜代・外様を問わず、
「返答を延ばして、時間稼ぎをすべきだ。そのうちにアメリカが諦めるだろう」
といういい加減なものばかりだった。中でわずかに、幕臣の勝麟太郎あたりが、真剣に国防論や人材登用を具申して来た。勝はこの意見書によって海防掛に登用される。真っ向から阿部のやり方に反対する者もいた。江戸城溜間詰めの譜代大名たちである。先頭に立っていたのが彦根藩主井伊直弼だった。井伊はこう言った。
「今までの幕府は、国民に対し"よらしむべし・しらしむべからず"の方針で臨んで来た。これは武士が政治に責任を持って、国民を頼らせるということだ。今の武士がそれを果たしているかどうかは別にして、阿部のようなことをすればその国是が壊れ、国民は却って混乱してしまう。情報公開などもってのほかだ」と、真っ向から反論を唱えた。阿部は、自分が言い出しっぺではあったが、この改革が容易に実現できないことを知った。改革にはすべて、
「物理的な壁・制度的な壁・意識的な壁の三つの壁」を打ち壊すことにある。特に最後の意識的な壁の破壊(意識改革)は容易なことではない。そのことを阿部はつくづくと感じた。しかしかれは怯まなかった。
「どんなに壁が厚かろうと、今これを行わなければ日本は国として存続できない」
という悲壮な決意を固めていたからである。
さすがにペリーは即答を求めなかった。
「来年にもう一度来る。その時までに返事を用意しておいてもらいたい」といって、この時はそのまま去って行った。したがって阿部の決断は、来年ペリーが再来するまでに実行されていなければならなかった。かれは次々と手を打った。四隻の黒船を見た時に、阿部は、
「外国船打払令の実行はもう無理だ。また、アメリカに漂流したことのある土佐の漁民中浜万次郎の情報によれば、国際語はすでにオランダ語から英語になり、物による交易がどこでも盛んに行われている。このまま、日本が世界から置き忘れられた国として存続することは得策ではない」と考えていた。開国を決断していたのである。そのためには、何といっても幕府の組織を整え、同時に幕府役人の意識をその方向に向けなければならない。今でいえば、
「ナショナリズムからグローバルリズムに切り換える」ということである。しかしこんなことが阿部一人でできるわけがない。彼の集めた海防掛の連中は、たしかに当時の幕臣としては有能であり、また開明的な考えを持っていたが何といっても少数だ。それに身分の低い者が沢山いる。この時はすでに勝麟太郎や中浜万次郎まで阿部は手元に加えていた。しかし、身分制によって終始して来た幕臣たちにすれば、こういう成り上がり者が自分たちの仲間になることは好まない。特に阿部が主唱する、
「外様大名も幕閣に加える」
などという思い切った決断は、到底受け入れかねる。阿部は孤立無援の状態になった。反対の声に囲まれて、かれはついに夜も眠れなくなった。黒船四隻よりも、むしろ江戸城内の敵に囲まれてノイローゼになってしまった。結果として彼の構想が実現を見ないまま彼は若死にしてしまう。安政四年六月に三十九歳で彼は急死する。同じ頃に、彼が幕閣に招いて保革連合政権を作ろうと考えていた最初の一人薩摩藩主島津斉彬も急死してしまう。もし阿部の構想が実現されていれば、後の公武合体策は勿論のこと、鳥羽伏見の戦いも、江戸城攻撃あるいは会津藩をはじめとする東北諸藩への新政府軍の攻撃などは、一切なかったはずだ。つまり、
「武力行使による国内変革」は実現しなかったはずである。しかし開明的な阿部にしてもついに、
「譜代大名の古い意識の壁」は、叩き壊すことができなかったのである。
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