【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第67回 農をいとなむ民の四季(1)2019年9月5日
土が見えない。緑が見えない。私の生まれ育った山形の冬はすべてが雪の下となる。もちろん緑がないわけではない。松、杉の緑はある。しかしそれは堅く黒い緑であり、柔らかく青い緑はない。11月末から3月初めまでほぼ毎日、灰色の曇り空、白い雪を灰のように降らす空の下に閉じこめられる。

3月半ばになって、陽がよく顔を出すようになり、野山を照らすようになったある日、溶けて少なくなった雪の間から畑の土の黒がちょっとのぞく。雪に囲まれたほぼ円形の土、雪解け水をしっぽりと吸い込んだ黒い土から、ハコベの緑色が白い枯れ葉をつけて、ちょこっと明るい陽に浮き立つ。
お彼岸近くになるとさらに日差しが強くなる。畑には汚れた雪がわずかに残るだけとなる。濡れた黒い土からゆらゆらと陽炎がのぼり、家の壁を、塀を、柿の木の枝を揺らす。
うらうらとした陽が暖かく田畑を照らす日、お念仏講の鉦の音がカーンカーンと遠くからのんびりと聞こえてくる。近所の中高年のご婦人が集まって各家を順次まわり、大きな数珠を回しながら南無阿弥陀仏を唱えるお彼岸の念仏講の行事が始まったのである。
そのとき、思わず「ああ春だ」と言ってしまう。行動範囲の狭められていた子どもたちが一斉に外に出て駆けずり回る。もう一方で農作業の準備が始まる。
4月近くになると梅が咲く。それが散りきらないうちに桜が咲く。庭にある桃の花、サクランボの花も続けて咲く。そのうち山麓の桜や山桜もぽつぽつと咲き始め、それを眺めながら田畑で本格的な農作業にとりかかる。
同時に、雪の中に閉じこめられていたさまざまな音、匂い、色がにぎやかに田畑を、家々を彩る。
田んぼを流れる小川のせせらぎから始まり、トンビ、ヒバリ、カッコウの鳴き声、6月から7月にかけて田んぼから波のようにうねって聞こえてくる無数の蛙の声、稲や麦の葉を揺らす風の音、農作業の途中突然鳴り出す雷の音、突如降り出すにわか雨の音、うるさいばかりの蝉の声、夏の終わりを知らせるスイッチョや秋の深まりを教えるコオロギの鳴き声、田んぼの畦を通るとイナゴが慌てて稲の間を逃げまどうカシャカシャという音等々、さまざまな音楽が自然、半自然の力でかなでられる。
この暑い夏の日、刈った山野草を庭や道路に広げて干す。冬の家畜のえさとして保存するためである。1、2時間すると、刈ったばかりの朝露に濡れた生草のみずみずしい匂いとはまるっきり違った匂いとなる。太陽の強烈な光を吸い取ったようなこげついたような甘い匂い、思いっきり胸に吸い込みたくなる。同じ草でも生えているとき、刈り取ったとき、干したとき、すべてその匂いが異なる。牛など家畜にとってはそれぞれ違った味でおいしいのではなかろうか。
雪解けの土の匂いから始まって、春の菜の花の匂い、青から金色に変わるのにともなって変わる麦の匂い、トマト・キュウリの青臭い匂い、各種野菜の「みんな違ってみんないい」(金子みすずの詩より)匂い、夏のむせかえるような草いきれのなかでかぐ稲の匂い、秋の黄ばんだ稲、刈り取ったばかりの稲の切り口から出てくる匂い、朝のあるいは夕方の田畑の匂い等々、田畑や作物により、季節により、時間により異なる匂いのなかで農をいとなむ民は過ごす(次回に続く)。
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