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二回あった「お正月」【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第178回2022年1月6日

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1970(昭45)年=減反の始まった年の正月、と書き始めてふとこんな疑問が浮かんだ、1960年代まではまだ正月が新旧の2回あったのではなかったろうか、もちろんあのころはすでに新暦を主体にするようになっていたが、地域によっては旧暦を主にしている地域もまだあったのではなかったろうかと。 

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とりわけ農山村部においては旧暦も大事にした。旧暦を中心として農作業、地域の各種行事が動いている地域もあった。だからその昔の暦、今でいうカレンダーには新暦の日を中心に旧歴の日も書かれていた。大体新暦の1カ月遅れの日付となっているので、私たちの幼い頃(昭和初期)はそのようなものと思っていた。

行事によっては新旧の2回執り行われるものもあった。正月がそうだった、町場にある私の地域では新の正月が主体になっていたが、旧正月もあり、ともに楽しみだつた。

新の正月、いうまでもなく餅をつく。これは大晦日から始まるが、それは保存のための切り餅用で、元旦に食べる餅は当日の朝暗いうちから起きて餅をつく。電灯の光をたよりに台所の土間で父が臼に向かって杵を振り上げ、母が餅を返す。朝まだ薄暗いのにどこの家からもぺったんぺったんと餅をつく音が聞こえる。そのつきたての餅を雑煮やあんこ、納豆に入れ、分家の大叔父もきて家族全員そろって食べる。

ただし、このように元旦に餅をつくというのは私の生家のある地域だけの風習だったようである。純農村部にある母の実家では同じ山形なのに年末に餅をつき、正月はゆっくり休むという。家内の実家のある宮城県南でも大晦日までにおせち料理をつくり、正月はそれを食べて台所には立たなかったという。

なぜ元旦に餅をつくのか。ついたばかりの温かい柔らかい餅を食べたい、神棚や仏壇にもつきたての餅をあげて豊作を祈願し、先祖を供養したい、そして新春を祝いたいということからなのではなかろうか、と思うのだが、よくわからない。

まあそれはそれとして、お正月はめったにない非日常、餅は食べられるし、甘いあんこ餅も食べられる(あのころは砂糖は高価、甘いお菓子も少なかったからだろう、やがて雑煮餅、納豆餅の方が好きになるのだが)からである。ただし、お年玉はなかった(貧しかったからなのだろう、正月三箇日の来客からはもらえたが)。

旧暦のお正月も同じように餅をついて祝った。ただし私の子どもの頃は副次的な行事になっており、その時つく餅は、その朝に食べるもの以外は保存食の「かき餅」(薄く四角に切って外に干し、からからに乾燥させた餅、焼くか油で揚げるかしてふくらまして食べる)用が中心となっていた。

なお、この旧正月には、米選機で選別された屑米や砕米のうちの相対的に粒の大きいうるち米に餅米を少し入れて「くだけ餅」をつき、これもかき餅にした。色が黒くておいしくはないが、油で揚げたりするとカリカリ煎餅のようになり、香ばしくてうまかった。

この旧正月との関わりで触れておきたいのは「寒休み」のことである。

私の小学校の頃は1月末から2月始めにかけて1週間くらいの寒休みというものがあり、旧の正月一日がそのなかに入った(そのかわりに新正の冬休みは若干短かった)。

冬休み以外になぜ寒休みがあるのか、単に極寒の時期だからなのか、それがよくわからなかった。いつの頃からだったろうか、次のように考えるようになった。これは旧正月との関係から来ているのではないかと。

新暦採用当初の明治、大正期は農家のお正月は旧暦中心だった。当時は脱穀、籾すり、精米等すべて手労働だったので、いくら新暦で正月をやれと言われてもやるわけにはいかず、旧正月の直前まで働かなければならなかったからである。だから、カレンダーはどうあれ、小学校で正月の式典をとりおこなったとしても、本当のお正月は旧歴でやることになる。農家と取引している商人などもそれに合わせざるを得なかったろう。当然旧暦の大晦日直前は忙しく、お正月は家族全員ゆっくり休む。子どもも旧の大晦日直前は学校を休んで手伝い、お正月は家族とともに祝い、ゆっくり休んだのではなかろうか。しかし学校を休まれては先生方は困る。だからといって学校に出て来いともなかなか言えない。やはり正月なのだ。

そこで考え出したのが新歴の正月の冬休みは短くし、旧正月の頃に休みを新たにつくることである。しかし、そんな「旧正休み」などを新暦の採用を強要してきた政府が認めるわけはない。

ところがいいことを思いついた。ちょうど旧正月のころは大寒などのもっとも寒い日、大雪の日が続く。そうした時期に子どもたちを学校に来させるのは大変なので、この時期に休ませる「寒休み」をつくりたい。こういう名目で実質「旧正月休み」の「寒休み」を認めさせたのではなかろうか。もちろん証拠も何もなく、私の勝手な憶測でしかないのだが。

なお、私の小さい頃の寒休みは旧正月と必ずしも一致しなくなっていた。足踏み脱穀機の導入等、秋から冬にかけての作業体系はかなり変わってきていたし、また新暦の正月も社会的に定着してきていたからだろう。こうして徐々に新暦の正月がメインとなり、旧正月はサブになってきた、そう考えたい。

やがて寒休みはなくなった。戦後いつ頃からだったのか、記憶にない。1970年ころにはなくなっていたような気がする。農作業も新暦を中心に行われるようになっていた。

その 1970年のお正月、農村部は異様な雰囲気に包まれた。前年の豊作を感謝し、今年の豊作を祈ることができなくなったのである。

本コラムの記事一覧は下記リンクよりご覧下さい。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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