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コラム:小説 決断の時―歴史に学ぶ―

【童門 冬二 / 歴史作家】

2016.03.10 
狼と虎に挟まれて 徳川 家康一覧へ

 天正十八年(一五八〇年)7月、徳川家康は豊臣秀吉から突然移封を命ぜられた。小田原の北条氏が秀吉に降伏したからだ。秀吉はいった。

◆突然の領地替え

「北条氏の旧領をすべてさしあげる。その代り」と秀吉は目の底を光らせていった。
「いまお持ちの土地は全部返納されたい」
 北条氏の旧領というのは関東地方八か国だ。家康の現有の領地は、駿河・遠江(共に静岡県)・三河(愛知県)・信濃(長野県)・甲斐(山梨県)の五か国だ。石高からいえば北条氏の旧領のほうが多い。しかし家康の家は三河の松平郷から発し、地域との因縁が深い。
 それに関東は都からさらに遠くなる。このころの家康に天下への志があったとは思えないが、やはり東国への移封は大いに迷う。
 それに秀吉に降伏はしたものの、早雲以来五代百年にわたる北条氏の善政は領地に浸透し、
「北条治下の民は善政によろこんで鼓腹撃壌している」
 と天下に有名だった。たとえ領主の北条氏はほろびても、その善政を慕う民は多い。ということは、素姓も政治能力もあまりしられていない家康にすれば、ひじょうに治めにくいということだ。北条旧領の住民は家康にとって、いわば"前方で待ち構える狼の群れ"であった。
 では後方はどうか。家康から召しあげた五か国を、秀吉は織田信長の次子信雄(かつ)に与えた。ところが信雄は、
「父祖ゆかりの尾張(愛知県)からはなれたくない」といって拒否した。秀吉は怒り、
「それでは五か国は与えない。下野(栃木県)の烏山(からすやま)で二万石を与える」と小大名に格下げしてしまった。
(もし北条氏の旧領をことわったら、オレも同じ目に合う)
 家康はそう感じた。これは当っていた。信雄処分はまさに家康にこれ見よがしにおこなったのだ。秀吉は家康に、
「北条家旧領に移らなかったら、信雄と同じ目に会うぞ」ということを、直接に見せつけたのだ。その意味で秀吉はうしろにいる虎だった。古い言葉に、
「前門の虎、後門の狼」というのがあるが、家康の場合は力関係でこれが逆になった。
 家康は領土問題でこういう窮境に追いこまれた。狼と虎という猛獣の真っ只中にほうりこまれてしまったのだ。


◆家康の決断と説明

狼と虎に挟まれて  徳川 家康(挿絵)大和坂  和可  この話を聞いた徳川家臣団は激昂した。
「殿下の策謀だ」「徳川家を東へ東へと追い、天下への望みを失わせようとしている。このつぎは必ず東北へ移させる」などという怒りの言葉がとび交った。
「ではどうするのだ?」という隠健派の問いには、
「そんなことは決っている。一戦あるのみだ」と勇ましく答える。
「勝てるのか、いまの徳川家の力で」
「勝てる勝てないではない。勝つのだ!」
 と精神論でやり返す。キリがない。本田正信という重臣が家康にきく。
「どうしますか」と決断をうながす。じっと家臣のやりとりをきいていた家康は、しずかに顔をあげた。そしていった。
「江戸城へ入る」
「では?」色めき立つ家臣たちに家康はうなずいた。
「そうだ。関東へ行く」
「秀吉への屈服ですぞ! くやしくないのですか」
「くやしい。しかしいま秀吉と戦っても勝てぬ。それは秀吉がひとりではなく、二十万の従う大名軍がいるからだ。おまえたちはその大軍に勝てるのか?」
 家康はクールだ。リアリストである。現実直視は今川家の人質だった少年時代からだ。けっして情に溺れない。他人がカッとしてワアワアさわいでも、じっと現実を重視して方策を探している。危機の時は脱出策を、難問の時は解決策を模索した。あくまでもクールな現実対応だ。
 それがいままで徳川家を訪れた数多くの危難から救ってきた。家臣の中には危難のたびに考え込む家康をみて、
「ああじれったい、もどかしい! 早く決断してくれ」とイラ立つ者も多かった。しかしそんなイラ立ちを尻目に、家康はギリギリまで考える。考えて考えて考え抜く。そして最後に、
「こうする」と自分の決断を告げる。結果としてその決断が徳川家を救い、それだけでなく大きく育ててきた。徳川家はもはや三河松平の一豪族ではない。天下人である関白豊臣秀吉を補佐する大大名なのである。領土問題とはいえ、家康の決断は大きな合戦以上の意味をもっていた。だから家臣の中には、
「徳川家にとって存亡の大問題だ」
 とさえいう者もいた。当っていた。けっして大げさな考えではなかった。
「関東に行く理由を話す」家康はいった。こういう時に必要なのは家臣の納得だ。それには納得を得る説明が要る。家康は簡単明瞭に説明した。
「領土が増える。約二百万石だ。いままでの倍に近い。根気よく治めれば兵力も増す。他日に備えられる」。それだけだった。しかし家臣たちは沈黙した。皆考えこんだ。考えは同じだった。
「収入が増える。軍事力が増強する。それが他日に備えることになる」。他日に備えるとは何のことだ? 互いに見かわす家臣たちの表情が少しずつ変わった。
 寄せた眉がひらかれた。固くコワばった頬がゆるんだ。鋭い光を溢れていた目が和んだ。頬に微笑が浮かびやがて大笑になり洪笑になった。
「そういうことか」
「どうもそのようだ」
 そういうことというのは、
「家康公はやる気だ」という共通認識だ。やる気というのは"天下への志"を家康はあきらめてはいない、ということだ。その準備のために草深い関東地方にも、一時退避しようということなのだ。
 家康式決断に馴れている家臣団は、家康の説明を全員が納得した。しかし全員が安堵と希望と期待にみちた笑いの合唱をする中で、たったひとり家康だけは笑わなかった。きびしい表情をしていた。
 家康を迎えた関東地方は冷たかった。江戸城は廃城に近いボロ城であり、江戸地方の住民も旧主の北条氏の善政を偲んでいた。家臣団の住宅さえ建てられなかった。土地を得るために家康は城の前面を埋めさせた。前面は海だ。
 現在の霞ヶ関・丸の内・九段・神田・新橋などは、この時にその原型ができた埋立地である。家康の"遠い道"への旅がはじまった。"重い荷を背負った"家康たちは、"必ず急ぐこと"なく、その道を着実にたどっていった。目的地はもちろん「天下」であった。
 成功させたのはもちろん旧北条氏の旧領への移封に対する、家康の決断であった。
(挿絵)大和坂 和可

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