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シリーズ:農協のかたち

【太田原高昭 / 北海道大学名誉教授】

2014.02.05 
総合農協を強化した複合経営と営農団地一覧へ

・玉川農協の米プラスα
・志和型複合経営の展開
・鹿児島発祥「営農団地」
・面目を一新、総合農協
・減反しても生産力増進

 高度経済成長にともなう農産物消費の構造変化は、農協の事業面に大きな変革を迫った。総合農協はそれによく応えた。
 それは、一方では組合員の農業経営の複合化による「米麦農協」からの脱皮であり、他方では複数の農協間の協同による「営農団地」の成功である。
 これらは、組合員の出稼ぎによる、あるいは単作の規模拡大による、農業からの離脱者を食い止め、複合化と営農団地化によって、共に農業者として生きよう、というものだった。
 こうした変革は、行政主導では不可能で、農協が主体になったからこそ可能だった。
 そのことを、農業構造改善事業の経過が物語っている。行政主導の第一次構改事業は期待された成果を収められなかったが、農協主導に代わった第二次構改事業からは、農業・農村の近代化の原動力になった。

◆玉川農協の米プラスα

 商業的農業と専門農協が発達していた西日本に対して、東日本は水田農業が卓越し「米麦農協」とか「米肥農協」とよばれる総合農協の天下であった。しかし高度経済成長と消費構造の変化はこの地帯にも変化をもたらすようになった。
 水稲単作的な農業から脱却し、農業経営を複合化して所得拡大を図ろうとする集団的、計画的な取り組みとして有名になったのは茨城県玉川農協の実践である。玉川農協は霞ケ浦に面した石岡市にある小さな農協だが、山口一門組合長の優れた指導の下に「米プラスアルファ」の経営改善運動を展開し、自給部門であった養豚や野菜の生産を拡大していった。
 プラスアルファ部門の拡大のために農協が最も力を入れたのが販路の確保であり、立地を生かして東京の生協との間で協同組合間協同による販売ルートを開いたのが功を奏して、産地は石岡市一帯に広がった。玉川農協は「産直」の開拓者としても記憶されなければならない。そしてこの取り組みは、営農指導と販売事業に加えて資金提供や資材購入の機能をあわせもつ総合農協の、新たな産地づくりにおける有利性を明らかにした。

◆志和型複合経営の展開

 玉川農協に続いて複合経営の集団的展開で注目を集めたのが岩手県志和農協である。盛岡市の南方にある志和地区は、夏場の稲作と冬場の出稼ぎで生活する「米と出稼ぎの村」であった。この農協が出稼ぎからの脱却を目指して「志和地区農業近代化計画」を立てたのは1964年だった。その中の印象的な一節をここでも紹介しておきたい。
 「農業に精進しようとする意欲的な農民には、たとえそれが経営規模が平均以下の農民であろうとも、他産業並みの生活ができることを目標としており、そのため稲作だけに頼って農民が互いに反目対立し、農村が混乱と無秩序に陥ったその中から、強者が生き残って平面的な農業の規模拡大を行うというような方法をとらずに、畜産、青果を振興し、農民が協力・団結して、農村が平和と秩序を保ちながら、立体的な農業規模の拡大を成就する方途を選んでおり、この計画の遂行によって、農協精神の神髄と農協運動の本領を遺憾なく発揮しようとするものであります。」
 岩手大学の佐藤正教授の理論を下敷きにしたこの方針は、水稲単作の道を農民層の分解を招き農協精神に反するものとして拒否し、経営複合化を共存同栄の道として選択している。志和農協はこの路線をとることで見事に出稼ぎからの脱却を果たし、経営規模に応じて複合部門のメニューを選択する「志和型複合経営」は全国的に大きな影響を与えた。

◆鹿児島発祥「営農団地」

 県単位で組織的に複合経営を推進したのは鹿児島の系統農協である。ここでは地区ごとに複数の農協を束ねて「営農団地」を作り上げるという手法をとり、姶良地区の養鶏団地を皮切りに果樹団地、養豚団地、肉牛団地、野菜団地などが次々と立ち上がった。この方式の特徴は中央会に各連協調の共同対策室を置き、団地専任指導員を中心に経済連が各団地事業部の運営に責任を持つという県連と単協が一体となった取り組みにあり、そのために畜産連と経済連の統合も断行された。
 全中では、「営農団地」の名付け親ともいうべき松村正治営農部長(のち常務)が、鹿児島の経験をふまえて営農団地を全国的な実践目標とした。これが1968年の全国農協大会で決定された「農業基本構想」のメインディッシュである。農業基本構想の「営農団地」は、農林省が農業構造改善事業で進めていた「農業団地」と表面上はあまり変わらないが、事業の進め方を行政主導から農協主導に切り替えるという重大な決意を内に秘めていた。
 すでにみたように農林省には当時の農協の営農活動に対する不信があり、構改事業の事業主体は市町村としていた。しかし複雑な農村社会に分け入って組織づくりや産地づくりを進める仕事はもともと行政の手に負えるものではない。そのため第一次構改事業には形式主義、非効率という批判があり、期待された成果を収めることができなかったのである。

◆面目を一新、総合農協

 この問題をめぐって、宮脇朝男会長、一楽照雄常務とサムライ揃いだった当時の全中と農林省との間には「お役所仕事に投資効果はない」「農協主導の事業に補助金は出せない」というような激しいやりとりがあったようだ。しかし結局は農協側の主張が通り、第二次構改においては農協が事業主体となるという大きな変化が生じた。これによって事業計画が現実的なものとなり、二次構の事業は実際に農業・農村の近代化の原動力となった。
 このような転換が可能となったのは、先行する農協の実践が全国に影響を与え、総合農協が大きく成長しつつあったからに他ならない。経営の複合化と団地形成は農協の営農指導力と市場対応力がなければ進まないから、この点での努力がとくに大きかった。
 総合農協の変貌は1970年代の減反政策で決定的となった。減反転作はいわば強制された複合化であり、稲作主産地の農協も変わらなければならなかった。総合農協は概して言えばよくこの要請にこたえ面目を一新した。営農指導とマーケティングに優れていた専門農協との合併統合も総合農協の強化に役立ったといえよう。

◆減反しても生産力増進

 1970年代から80年代前半までは減反と生産調整のさなかであり、農業生産力が後退したと思っている人が多い。しかし実際にはこの時期の農業生産高は増加を続けていたのであり、1985年が日本農業の生産のピークであった。これは減反に負けず複合経営と営農団地で頑張った農民と農協の努力の成果であり、日本農業の可能性を示すものであった。農業生産の下降はこの年に開始されたガット・ウルグアイ・ラウンドの下で生じた。

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