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弔辞 農政学の泰斗 梶井功先生=昭和生まれの巨星墜つ 谷口信和東京大名誉教授2019年7月5日

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 梶井功東京農工大学元学長が7月2日に逝去されました。その死を悼み谷口信和東京大学名誉教授から弔辞が寄せられました。

20190705 ヘッドライン 梶井功東京農工大学元学長 

 7月2日未明、梶井功先生がご逝去された。訃報に接して思わず大粒の涙がこぼれた。この日の来ることを覚悟していたとはいえ、先生が最も大切にしていた「農村と都市をむすぶ」誌の編集委員会の日だったことは単なる偶然とは思えない。
 「かじいこう」ではなく、「かじいいそし」と読むのですよ。先生の身近に居た後進の研究者が自慢することの一つに正しいお名前の読み方を知っていることがあった。それだけで、何だか自分が偉くなったような気がしたものである。
 梶井先生が敬愛してやまなかった近藤康男先生が農政学の泰斗であり、明治生まれの巨星だったとすれば、梶井先生は昭和生まれの巨星と呼ぶに相応しいだろう。文化勲章を受章された東畑精一先生が近藤先生を「一途の人」と呼んで称賛したが、いくつかの留保条件を付けて梶井先生もまた「一途の人」という称賛の言葉が、その人となりに相応しい。
 留保条件とは梶井先生が愛してやまなかった囲碁とお酒とタバコである。近藤先生はこれらとは無縁の方だったと伺っている。しかし、梶井先生は50代の後半ごろか過労で倒れられたことを契機としてタバコはぷっつり止められたと記憶している。意志の強さに驚かされた覚えがある。
 私が初めて先生から講義を受けたのは、東大の農業工学科の大学院での集中講義であった。1973年に東大出版会から公刊された『小企業農の存立条件』のゲラ刷りを用いられた。その第2章は「昭和42年米生産費調査結果は、九州ブロックにおいて注目すべき結果、すなわち下層の10aあたり米作所得よりも、上層の10aあたり米作余剰の方が高いという結果をしめした」という有名な書き出しで始まる。常識的な学術論文のスタイルを大胆に打ち破った書き出しにびっくりした読者は、発見した統計的事実の斬新さに二度目の衝撃を受ける。そして、これが「借地制資本家的農業経営成立は、論理的には可能になった」、「上・下層間の生産力格差が、昭和42年の段階で質的な変化の段階に入った」という結論に到達したときの三度目の衝撃の大きさは表現しようがない。
 先生のお仕事は『梶井功著作集』全7巻に加え、『国際化農政期の農業問題』、『WTO時代の食料・農業問題』などの多数の著書・編著に結実しており、多方面からの評価によっても、これらの業績が日本の農業経済学における「歴史的遺産」の地位を獲得していることは私が指摘するまでもない。その研究分野が多岐にわたり、最後は政策提言に結実し、しばしば現実の農業団体の運動に影響を与えてきたことも周知のことであろう。
 しかし、ここでは1986年刊『現代農政論』の一節を取り上げておきたい。それは米需給と水田利用再編問題について論じた箇所である。米の1人あたり消費量の長期的推移を図示する中で、それが1921~25年をピークにして減少局面に入り、第二次大戦後の1956~60年期のピークもこの減少傾向線上に位置しているという統計的・歴史的事実をおそらく初めてきちんと摘出したからである。誰もが1962年という戦後の米消費のピークから議論を始めることの問題性を鋭く意識されてのことだが、そこに水田利用再編対策が持たざるをえない歴史的な課題の意義を見出そうという意図が潜んでいたのである。
 この図を現代にまで引き延ばし、国際比較をすることは私のその後の研究方法の一極を構成する重要な要素となったことを改めて先生に感謝しておきたい。今回、訃報に接する中で改めて読み直して気がついたことがあった。それは以上の事実を言い換えた箇所だ。「昭和元年が1926年だが、1人あたり米消費量の減少は昭和とともに始まったといっていいのである」。いうまでもなく、昭和元年とは先生が生まれた年でもある。いや正確にいえば、1926年12月25日までは大正15年だから、9月21日生まれの先生は大正世代ということになる。だが、米消費量の減少を昭和とともに始まったと記述するところが梶井流の文学的センスだ。この歴史的事実に着目するのは、梶井先生が、自分が生まれ育った時代の歴史的文脈の中に自らと自らの学問を位置づけようとする姿勢の象徴であろう。
 後に梶井シューレと総称される農業経済研究者はいわゆる昭和一桁世代である。そこに通底する問題意識は、自らの周りの多くの人々が職業選択としてではなく、生業として農業を継承せざるをえない時代的な制約の下で、その限界性をいかに突破していくかということを、研究者としてのポジションを得た者の社会的責任ノブリス・オブリージュを踏まえ、現実との理論的な格闘の中から明らかにしようというものではなかったのか。そこに、梶井先生の先駆者としての立ち位置が鮮やかに示されている。
 先生が晩年に力を注いでいた三つの活動がある。一つは農林統計協会の『日本農業年報』だ。大内力先生の編集代表から梶井先生に代わって47号から2012年刊行の58号まで担当され、その後を私にバトンタッチされた。現在65号の編集中である。二つ目は全農林労働組合が公刊する「農村と都市をむすぶ」誌の編集代表である。この雑誌は近藤康男先生が1974年の282号から1999年の575号まで編集代表をされた後、梶井先生が現在に至るまで編集代表を務められており、昨年800号を突破して、現在812号の刊行直前である。私は2000年頃から編集長として梶井先生をサポートしてきた。三つめは(一社)農協協会の下に組織された農業協同組合研究会であり、代表を務められている。こちらも常務理事の一員として支えているが、残念ながら私の力不足の領域なので、サポーターの役割に止まらざるをえない。だが、このいずれも決して松明の火を絶やすことがないように全力を尽くすことをお誓いしたいと思う。
 巨星は天国に居るのではなく、墜ちて私たちの心の中にいると解釈することをお許し頂き、先生への追悼の言葉といたします。梶井先生 安らかにお眠りください。

 

 合掌
2019年7月4日
東京大学名誉教授・谷口信和

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