【童門冬二・小説 決断の時―歴史に学ぶ―】きびしさを慕われた代官 早川正紀2019年1月13日
◆白河の水は清いがきびしい
「田や沼や汚れた御代を改めて 清く澄ませ白河の水」
江戸中期に、こんな落首が流行った。田や沼というのは時の老中田沼意次のことだ。白河の水というのは、白河藩主松平定信のことである。田沼意次は、独特な政策によって経済をかなり成長させた。しかし本人が賄賂好きだったので、江戸城の役人が真似をした。そのため、民心もかなり乱れた。良識のある国民は、
「どんなに経済が伸びても、トップに立つ政治家が賄賂ばかり取っていたのでは嫌になる」といって、こんな落首が流行ったのである。反対に松平定信は清廉潔白で、曲がったことが大嫌いだった。田沼はやがて職を失い、松平定信が代わって老中になった。定信は、全国の大名をはじめ江戸城の役人たちが昔の清い心を持って仕事を励むことを求めた。幕府は日本各地に直轄地を持っている。天領と呼ばれる。そこで地域行政を行うのが代官だ。特に年貢の課税徴収を行うからやはり代官が人格的にも模範を示さなければならない。勘定奉行(財務大臣)の部下が諸国に派遣されて代官になる。
久世(岡山県)にも代官所があって、ここに派遣されたのが早川正紀である。早川は、すでに出羽国(山形県)の尾花沢で代官の経験があった。かれは、
「米を植えれば米ができ、豆を植えれば豆が生じる。善をうえれば幸福となる。悪をうえれば禍(わざわい)となる。これ天命というものは我が建てるものである」
と言っていた。老中が田沼の時代からこういうことを言っていたので、江戸城では煙たがられた。しかし松平に代が替った後は、早川にとってまさに、
「待ちかねていた世の中になった」ということだ。早川は、
「すべて役人は至誠を以て行わなければならない。これが天の道である」と周囲にも強調していた。かれは尾花沢で「六つの教え」という諭をしている。次のようなものだ。
一 酒食をすごすは病を生ずる本(もと)である
一 言を敬わないのは過(あやまち)の本である
一 思案しないのは過の本である
一 私欲深きは身を殺す本である
一 倹約できないのは困窮の本である
一 怒をこらえないのは爭の本である
こういうわかり易い諭を以って、住民に臨んだ。
◆表彰される
久世に異動したのは天明七(一七八七)年七月のことである。代官所に着いて驚いた。未決の書類が山となっていたからだ。これは前任の代官の怠慢に拠るもので、部下の役人もそういう代官の怠け癖をそのまま引き継いでいた。早川は、
(まず、代官所の粛清をしよう。そうしなければ、住民がついて来ない)と思った。まずかれは管轄内を積極的に巡回した。村々では、名主をはじめ主だった者が道端に座り込んで、正座し、早川を迎えた。この光景を見て、
早川はすぐ名主に告げた。
「わしの巡回は、これからもしばしば行う。その度に、おまえたちが道端に手をついていたのでは、村人たちも仕事を休まなければならない。そんなことはやめよう。みんな仕事をしながら、自然の姿を見せてくれ」。
名主は感動した。前の代官とは全く違うと思った。そこでその後の巡回には早川の言った通りにした。
早川は、村々を回ってみて゛間引き(生まれたばかりの赤ん坊をあの世に送り返す悪習)゛が多いのを知って悲しんだ。しかし、これもすべて貧しさからのことだと思い、
「まず、村民を富ませなければこの悪習は止まない」と思った。そこで、地域の資源開発に力を尽くした。廃坑になっていた鉱山も復活させた。しかし同時にまた、
「心の悪習も直さなければだめだ」と考え、前の尾花沢で住民に告げた"六つの教え"を基にして、私塾を開いた。京都から学者を呼んで講義を行わせた。人間というのは不思議なものだと早川は思った。それは、
「わしのように喧しいことばかり言っていれば、当然住民は嫌うはずだ。ところが、この久世の住民たちは逆に喜び、喜々として従ってくれる」と感じたからだ。その通りだった。久世の村民は真面目で、前の代官のようにぐうたらな怠け者を心の中では嫌っていた。しかし、背くと罰を受けるので仕方なく仕事を怠けていたのである。根が真面目なので、早川のようにビシビシと厳しいことを告げ、時には大声で叱る代官の方が村人たちは従い易かった。村の悪習はどんどんなくなり、空気も次第に真面目なものに変わって行った。
早川の善政は江戸城の松平定信の耳にも入った。定信は喜んだ。かれは幕府全体の綱紀を厳しく改めようと志していたから、早川の様な代官が地方で模範を示すのは大歓迎だった。
「すぐ早川を表彰しろ」と命じた。早川は褒美をもらった。村民もみんな喜んだ。
(挿絵)大和坂 和可
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