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コラム:昔の農村・今の世の中

【酒井惇一(東北大学名誉教授)】

2019.03.21 
【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第45回 『ああ上野駅』一覧へ

 1954(昭29)年4月初めのある夜、中学を卒業したばかりの農村地域の子どもたちを乗せた臨時の夜行列車が、上野駅に向かって青森駅を出発した。都市部の工場や商店、飲食店などに就職する子どもたちは、後に「集団就職列車」と呼ばれるこの列車の窓から身を乗り出し、泣きじゃくりながら手を振って、蒸気機関車の出発の汽笛とともに、家族に、ふるさとに別れを告げた。

 誰からだったろうか、こんな話を聞いたことがある。しばらくたってようやく涙を抑えられるようになった車中の子どもたちは、母や祖母がつくってくれたおにぎりやおかず、近所からもらったお菓子などを、ただ黙って、休むことなしに、なくなるまで食べ続けたと。そうでもしていなければ、悲しさと不安をまぎらわすことができなかったのであろう。
 送り出した親たちも、家に帰った後、持たせた弁当やおにぎりの残りを食べながら、これからの子どもの苦労を思い、健康を祈って、心で涙したのではなかろうか。
 これを皮切りに、毎年毎年、東北各地から、やがては全国各地から東京へ、大阪へ向けて、下積みの低賃金長時間労働力となる子どもたちの悲しい思いを乗せた集団就職列車が走った。
 こうして都会に行った子どもたちは、後の農村からの出稼ぎとともに、使い捨ての安い労働力として日本の高度経済成長時代を底辺で支えた。
 それでも集団就職列車に載った子どもたちは学校なり、職安なりの保証がある職場に勤められたので、相対的に近代的な労働条件の下で働くことができ、当時の農村過剰人口問題の一定の解決を示すものだったと言う意味で、明るいニュースでもあった、と私は思う。
 とは言っても、ふるさとに残った親や長男は、東京に出した子ども、あるいは弟妹に負い目があった。自分たちのふがいなさのために遠い遠い東京で苦労させて申し訳ない、できるならふるさとに呼び戻したいという気持ちでいっぱいだった。

 この子どもたちはやがて「金の卵」と呼ばれるようになった。まさにその後の高度経済成長を支える貴重な労働力となった。しかし「金の卵」のように大事にされたわけではなかった。『ALWAYS 三丁目の夕日』(注1)の堀北真希扮する青森出身の星野六子などは恵まれた方だった。
 故郷は遠かった。星野六子の故郷青森まで上野から24時間もかかり、本数も少なかった。今と違って汽車賃は高かった。帰りたいと思っても簡単に帰れなかった。母親の声を聞きたいと思っても電話などなかった。夜布団に入って家族を故郷の風景を思いながら涙を流すしかなかった。たまの休みの日には上野駅に行って「故郷のなまり」を聞き、「故郷の香り」をかいで心を慰めた。
 その気持ちを歌い上げたのが『ああ上野駅』の歌(注2)だった。

 

 「どこかに故郷の 香りをのせて

入る列車の なつかしさ

上野は俺らの 心の駅だ......(後略)......」 

 

 この歌詞は『家の光』の懸賞応募一等入選作で、これを歌った井沢八郎は青森出身者だということは後で知ったのだが、1964年に発売されたこの歌は大ヒットし、その後も東北出身者を始めとする多くの人に愛されてきた。


 あの慣れ親しんだ上野駅も変わってしまった。薄暗く雑然としながら何とも言えない温かさを感じたあの独特の雰囲気がどこかに行ってしまった。駅の正面玄関口の外観が以前とあまり変わっていないことにほっとするが、やはり淋しく感じる。これも歳のせいなのだろう。

 上野駅で泣ける人はまだよかった。何かあったら故郷に逃げ帰ることもできた。しかし戦後ブラジルなど中南米に移民した人たちは帰るに帰れなかった。

(注)
1.監督:山崎貴、脚本:山崎貴・古沢良太、原作:西岸良平、主演:吉岡秀隆・堤真一、配給:東宝、2005(平17)年
2.歌:井沢八郎、作詩:関口義明、作曲:荒井英一、1964(昭39)年

 

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