【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第71回 かつての商人と農民2019年10月3日

明治の初め、宮城県北のある造り酒屋が街道の峠に茶店を開いた。そこではお茶やお菓子と同時に自分の家で作った酒も飲ませた。
自動車もなく、鉄道も整備されていない時代だから、その街道はいろいろな通行人でにぎわっていたが、牛馬であるいは背中に背負って農林産物等を運搬したり、町でそれを売ってきたりする近在の村の農家の人も朝早くからそこを通る。
やがて彼らは仕事を終え、昼遅くか夕方近く帰って来る。峠まで来るとほっとする。後は下るだけ、後ろの空の車に乗って居眠りしても牛馬は黙って家に連れて行ってくれる。しかもふところにたんまり金はある。ついつい気のゆるみからその店でお酒を一杯飲む。さて帰ろうと店の椅子から腰をあげ、勘定を払おうとする。しかし店の者は金を受け取らない。「支払い いつでもいいから」と言う。たいした金ではないし、町で手に入れたお金はそっくり家にもって帰れるので家族にも喜ばれる。「それではこの次来たときに払うから」と家路につく。しかしその次も同じことで、店はお金を受け取らない。直接ふところが傷まないから、ついつい一杯が二杯、二杯が三杯となっていく。それが繰り返されているうちに年末になる。酒屋から請求がくる。かなりの金額になっている。しかし、今まで得た金は、何しろぎりぎりいっぱいの暮らし、すべて家計に回っている。たから払えるようなお金は家に残っていない。払えない。やむを得ず借用書を書く。当然それには高い利息がつく。翌年も同じことが続く。そのうち借金がたまりにたまり、そのかたに土地が取り上げられる。こうしてその酒屋は数年のちに大地主になった。
かつてこの話を研究室の技官をしていた方から聞いたとき、本当かなあと笑ってしまったが、まああり得ない話ではない。意思の弱い、酒に弱い私などもきっとその一員となってしまっただろう。
商人に人間の心理、弱さをつかれれば一般人はかなわなかった。
かつての農家は自給自足を基本にしていたが、どうしても買わなければならない生産資材、生活資材があった。生産資材でいえば明治以降、大豆粕や魚粕の購入が不可欠となっていた(大正末期からは硫安などの化学肥料に変わっていくが)。限られた土地から多くの収量をあげるためである。
しかし、買おうとしても現金がない。もう売れるものは売っており、あとは収穫の時期にならないと金は入らない。そこでやむを得ず支払いを待ってもらうことになる。いわゆる「つけ」で買うことになる。となると当然のことながら商品の価格は即金払いのときよりは高くなる。商人は利息分を価格に加えるからである。これは今いった肥料ばかりではない。つけで買うあらゆる購入品について同じである。
やがて払うべき時期(たとえば米の収穫期)がくる。そのとき購入代金を払わないと、今度は借用証に切り替えられ、まともに利息がかけられる。これでは困る、一刻も早くお金が欲しい。有利な売り先など探している暇もなし、価格の有利な時期(米を例にしていえば端境期)をねらって売るなどという余裕はない。結局は商人のいうままの安い値段で売るしかない。そこにつけこんで商人は買いたたく。もちろん、商人は「お宅にだけ他の家よりも高い値段で買ってやっているのだ」とささやく。そしてその後に必ずこう付け加える、「だからこの値段を隣の家にはもちろん他人に絶対言うな」と。こう言って農家を分断させながら買い歩く。
売るとき、買うとき、往復びんた(戦前はよく使われた言葉だが、今ならどう言うのだろうか)で商人から収奪されるのだからたまったものではなった。肥料を始めとする生産資材や生活用品の購入が不可欠になり、それに対応して米や繭等の生産物の販売を増やさなければならなくなるなかで、つまり商品経済が浸透するなかで、これは深刻な問題となってきた。
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