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わが手を見よ、足を見よ  二宮金次郎【童門冬二・小説 決断の時―歴史に学ぶ―】2021年9月4日

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わが手を見よ、足を見よ  二宮金次郎

「論語」の日本人への浸透

世の中のせいか、時折「『論語』の日本人への影響」の話を頼まれる。現地に行けないのでビデオにして届ける。もっとも痛烈な活用を示したのは、二宮金次郎だ。

かれは、

死ぬ間際に、「わが手を見よ、足を見よ」と、自分の手足を示した。この言葉は金次郎のオリジナルではない。「論語」でないが同じ中国の古典「孝経」に同じ一文がある。私は「論語」と同じように受けとめている。

この時の金次郎の手足は長年にわたる農耕作業で原型を失い、つくられた筋肉だらけの形だった。

「オレは云ったことは必ず実行してきた。だからこんな体になった。よく見ておくがいい」という気持が誇示されている。私はこの時の金次郎はまわりの人々に、ひとつの問い掛けをしていたと思う。それは「孝経」に出てくる「わが手を見よ、足を見よ」で示された手足は、ほとんど生れた時からの形態を保っており、後につくられた筋肉など一片もない。そしてこの言葉は前提があって、

「身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝のはじめなり」

という言葉だ。守りぬけばその肉体は手入れがよく美しい。

金次郎の農業哲学も多くは中国の古典にきっかけを求めている。戦前はどこの公立学校(特に小学校)の庭にもあったかれの銅像は、少年姿で背に薪を負い熱心に本を読んでいる。あの本はやはり中国の古典の「大学」だ。これも「論語」の話に加える。全文で一七五二字しかない。

金次郎は座右の書として生涯読み抜いた。金次郎にすればこの短い文章にも疑問点が多々あった。それを自分の頭で考えて理解点を求めた。いくら考えても解けぬ箇所は破り捨てた、と伝えられるからその気迫は凄まじい。それも、(オレの頭で考えてもわからないのは、書いた人が間違っている)というのが破る動機だそうだから、さらに凄まじい。

と感じながら、私は時折この方法を借用している。孔子のいう「従心(じゅうしん。七十歳)を二回りも過ぎている私は、孔子の、

「七十歳を過ぎれば、人間も自分の思い通りに行動しても誤りはない」との解釈をとうの昔に放棄している。孔子は、

「その年齢になれば、長年の勉学で何をやっても誤らない境地に達しているはずだ。またそうでなくてはならない」ということなのだろうが、"至らぬ未熟者"の私は、他にも孔子の設定した目標、四十歳の不惑・五十歳の知命・六十歳の耳順など、ひとつとして達成したことはない。だからといってその箇所を破り捨てるほどの、非礼を働く勇気はないから見て見ぬフリをしている。

私は二宮金次郎を「農業界における宮本武蔵」とみているから、武蔵の云った(というより書き手の吉川英治さんの云った)、「自分以外すべて師」の実行者だと思っている。で、私もそれを実行している。

カラオケにも影響が

だから師は至る所にいる。飲食店のおやじにもいるし、タクシー・ドライバーにもいる。分野的にも生業の活字の世界だけでなく、映画・落語・音楽・絵画等色々な分野に、多くの"師"を発見し、学んでいる。

特に東京オリンピックでは、若い選手たちの、予想をこえる鍛錬精進ぶりには、頭が下がり、胸に熱いものがこみあげる例を沢山学んだ。

ただしこれにも条件があって、今の私の人生信条は、孔子の「恕(じょ。常に相手の立場に立つ思いやりとやさしさ)の精神」と、孟子の"忍びざるの心(危難に遭っている人をみれば、見るに忍びずその救済に身を挺する衝動の実行者)"を大切にしたい。

この二つを大切にすれば、当然ルールとマナーを守る立派な選手だ。若いけれどそういう立派な人を沢山見た。

古い奴だとお思いでしょうが(鶴田浩二さんの唄・これは明らかに「論語」の「温故知新〈古きをたずねて新しきを知る〉です。演歌にも「論語」の片々が広く沁みこんでいる。

今のコロナ退治に、あっちこっちで多少の凹凸があるにしても、ひばりさんの"川の流れのように"、大層が心を揃えて歩いているのは、やはり三千年強前の古い教え「恕」と「忍びざる心」が、知らないうちに、日本人の生活慣習に沁みこんだのだと思う。孔子の言葉に、

「過(あやま)って改むるは憚(はばか)ることなかれ」

というのがある。

「『論語』の影響はカラオケ社会にも及んでいます」

「論語の話を」と頼まれると、私はその庶民への浸透の例を演歌にまで及ばせる。そしてこの「過って...」の言葉の例を和田アキ子さんの唄に結びつける。"笑って許して"だ。「自分以外師だ」と考えれば世の中で学べぬことなどない。これほどの浸透力を持つ"人間学の達人"を、生みの親である国が否定してしまっているのだから、横井小楠のいう"道のない国"になるのは仕方がない。その小楠の、

「今の世界で、"道のある国"になれるのは(ならなければならないのは)、日本だけだ」

という言葉が、痛切な思いでよみがえる。

さて棚に上げっ放しにした二宮金次郎の、

「わが手を見よ、足を見よ」

の痛切な言葉を、私は、

「おまえさん方はどっちを選ぶのか?」

という問いかけと受けとめる。

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童門冬二(歴史作家)のコラム【小説 決断の時―歴史に学ぶ―】

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