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マイナスをプラスに変えて 前田利家【童門冬二・小説決断の時―歴史に学ぶ―】2022年5月21日

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マイナスをプラスに変えて 前田利家【童門冬二・小説決断の時―歴史に学ぶ―】

本社からはずされ地方の社長に

以前、金沢(石川県)に行って土地の知人に、
「金沢ってすばらしい観光地だね」といったら逆ネジをくったことがある。
「金沢は観光都市じゃない」
「じゃ何だ?」
「文化都市だ」私は黙した。かれの言葉に理を認めたからだ。そのころでもよくいわれた、
「金沢では天から謡(うたい)が降ってくる」

冬の″雪吊り"の準備をする植木職人・住家の屋根瓦を替える左官職人・みんな唸っている。室生(ほうしょう)流の謡を、私は、
「そうだな、いやその通りだ」と素直にうなずいた。

江戸時代、「日本の大都市文化は町人(商人)文化だ」といわれた。儒教の影響で商人には税金が課せられていない。事業税や法人税などない。可処分所得がかなり出る。しかし自分のために使えば「不届だ」とお上(かみ)にニラまれて罰される。そこで多くの金が地域の文化振興に使われた。だから"町人(商人)文化"だといわれた。

その中で一都市だけ、
「いや、ここだけは武家文化だ」

と胸を張った都市がある。加賀百万石の首都金沢だ。その基(もと)をつくったのが前田利家(まえだ・としいえ)だ。初代の藩主だ。

若いころは主君の織田信長にかぶれて、サイケな服装で町を練り歩くバサラ者(ホトケの教えにそむく者)だった。

北陸北面の鎮定を命ぜられてどうにか制圧した。
(この手柄でオレもご主人の天下事業を手伝える)。現在でいえば「本社で管理中枢機能でのポストが得られる」、ということだ。期待に胸をふくらませていると、中央へ戻る信長に呼ばれた。
「このたびはごくろうだった」
「いえ。お供します」
「いや、要(い)らぬ。おまえはこの地に残れ」
「えっ」ビックリした。「なぜですか」「中央での天下事業はサル(羽柴秀吉)とハゲネズミ(信長が明智光秀につけたアダ名。サルも同じ)に手伝わせる」「なぜ私はこの地に?」大不満だった。信長は答えた。「おまえは政治性が足らぬ」「政治性とは何ですか?」言葉が尖(とが)った。信長はこう応じた。
「おまえはサルのようにきらいな奴に向っておベンチャラをいい、平気でウソがつけるか? ハゲネズミのように本心をかくして、おれをあざむけるか?」「ダメです。武士の誇りがゆるしません」「そうだろう。それがおまえいいところだ。風向きが変ってきた。利家はおや? と思って耳を立てた。信長は続けた。

天下事業の"文化"を受け持て

「おれの天下事業は二つある。ひとつは政治でこの国(日本)の仕組みを変える。もう一つは風流の道でこれによって民の心ゆたかにする。おまえは幼いころのつきあいだ。根っからの風流人だ。ここに残って北陸を風流の国にしろ。おれは政治だけで手が一杯だ。風流まで手がまわらぬ」

つまり北陸を「文化立国として文化治国の目にせよ」というのだ。利家の頭の回転は早い。
(そうか、そういうことだったのか)と気がついた。何よりも嬉しかったのは、信長が依然として利家を信じ、評価してくれていたことだ。
(北陸に風流(文化)の苗を植えて育てれば、それは立派に信長様の天下事業の一翼をになったことになる。いや、天下事業そのものを実現したことになる)利家はそう思った。

当面は「前田は左遷された」「天下事業から除外された」「北陸で何かヘマをやったのだろう」などといろいろいわれるだろう。
「たが批判は一時、風流は永遠だ」とカッコつけた。

"おこもりぐらし"を続けていると、考えることが身近のことに絞られ、小さくなる。子供のころ 小さく小さく小さくなあれ 小さくなってアリさんになあれ という童謡が流行った。

そのアリさんは夏の間働らきすぎて、冬になると冬死にしてしまった(と、童話は伝える)。

私は利家の決断をいまのような世の中に活用すべきだと思う。つまり、
「マイナスをプラスに転換する」
「一時の不遇でオチコマないこと」

などである。

だからといって、利家がこの時立てた志はその後スンナリと実現されたわけではない。加賀が"文化の国"と銘打たれるのには、二代、三代、四代の藩主を経て、五代までかかった。

五代目は"松雲公(しょううんこう)"と敬称された綱紀(つなのり)だ。

学者でもあった。古今東西から本を集めた。その量と質の高さに、当時学者たちは、
「金沢城は日本の書府だ」

と羨ましがった。

また伝統工芸品の生産を奨励したので、
「百工比照」

の賞讃を浴びた。

ただし、このために藩財政がかなり傾いたのも事実だ。が、
「松雲公のせいだ」とは面と向ってはいわなかった。利家の"風流(文化)立国"の精神が固く守られていたためだ。

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