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シリーズ:農協のかたち

【太田原高昭 / 北海道大学名誉教授】

2014.01.08 
専門農協と総合農協との対抗一覧へ

・牙城愛媛で競合と激突
・理論を超え組織紛争に
・各地で対立、対応は多様
・貿易自由化 産地に危機
・発展阻んだ日本の農政

 専門農協の牙城である愛媛県をみてみよう。ここには、みかんの専門農協で有名な「温泉青果農協」があった。1960年代のみかんの需要拡大で、作付け面積が急激に増え、事業を急速に拡大した。
 一方、総合農協も新しく園芸部を作って、みかん事業を拡大した。
 ここで、専門農協と総合農協の間に、販路をめぐる激しい競合が起きた。両者の争いは深刻な政治問題にもなった。こうした争いは、全国の各地で起きた。
 しかし、この争いは輸入自由化による価格の暴落で、いっきに吹き飛んでしまった。専門農協は信用部門を持てないことが、決定的な弱点になり、価格の暴落に耐えられなくなった。そして、その多くは定款を変えて総合農協に変身したり、近くの総合農協と合併して総合農協になったりした。
 つまり、輸入自由化という、農業保護政策の放棄が、専門農協の存続を妨げたのである。

◆牙城愛媛で競合と激突

 基本法農政の下で展開された「総合・専門問題論争」において、専門農協主義を掲げて論陣を張った愛媛大学若林教授の基盤となっていたのは愛媛県のみかん産業であった。愛媛県には戦前の同業者組合の流れをくむ強力な専門農協が各地に発達しており、戦後の愛媛みかんの急速な拡大の主役となっていた。
 その中でも、松山市や北条市を含む温泉郡を事業区域とする温泉青果農協は、みかんの集荷販売とジュース加工の広域専門農協として全国的に優良農協として知られ、専門農協陣営の旗艦的存在であった。ここには後に愛媛大学教授となる麻野尚延が参事として控えており、理論的にも専門農協主義のリーダーであった。
 しかし専門農協の牙城である愛媛県においても1960年代に入ると大きな変化が見られた。みかんの作付け面積が急激に拡大し、これまで専門農協が形成されていなかった地域にもみかん山が広がっていった。こうして形成された新産地においては、その地域の総合農協がみかんの取り扱いに進出するかたちになり、市場出荷をめぐって全県的に事業競合が発生することになる。

◆理論を超え組織紛争に

 事業競合が激しくなるにつれて、「総合・専門問題」は農協合併問題に持ち込まれ、理論闘争から組織紛争の様相を呈するようになる。農基法と同時に制定された農協合併助成法に対応して、系統農協は1965年に総合農協と専門農協の合併方針を明らかにした。専門農協側はこれを総合農協本位の専門農協吸収策であると反発し、各地で合併をめぐる対立紛争が頻発したのである。
 愛媛県では力に勝る専門農協の側が、小規模な総合農協を次々と吸収合併するという挙に出た。なかでも温泉青果農協は管内にあった6つの総合農協をすべて吸収し、その事業を継承して大規模総合農協へと成長した。 その結果販売事業だけでなく、信用・共済事業においても競合が生じるようになったから、組織紛争は県連を巻き込んで拡大した。この対立は1967年の県知事選において両陣営が別々の候補を推して激突するという事態に至った。
 この選挙戦で専門農協側の候補が圧勝したことで、それまでの対立関係は専門農協のヘゲモニーのもとに解消に向かい、専門農協による総合農協の吸収合併もそのまま続行されることになった。

◆各地で対立、対応は多様

 しかし、すべてが愛媛県のようになったわけではない。みかんの新興産地である佐賀県では、やはり生産資材をめぐる園芸連と経済連の対立などのかたちで専門・総合問題が発生していたが、新興産地であるだけに専門農協の基盤が弱く、1960年代後半のみかん価格の暴落によって専門農協が経営危機に陥り、愛媛とは逆に総合農協による吸収合併が進んだ。
 香川県でも専門農協のほとんどが総合農協と合併したが、みかんや野菜の共販組織としての園芸連は強固に残り、経済連とのシビアな競合が発生していた。そこで両連合会の統合が図られたが、ここでも専門か総合かの理論闘争となって紛糾した。そこで園芸連を残して青果物を一手に取り扱う代わりに、生産資材は経済連を通すという妥協が成立した。みかんではないが輸送園芸の大産地高知での園芸組合と農協園芸部の合併もこの例に入れてよい。
 このように農協合併とからんだ「総合・専門問題」の処理の仕方は、それぞれの地域での産地形成の在り方と両陣営の主体的力量、さらには行政の調整能力などによって決して一様ではなかった。いずれにせよ、専門農協は商業的農業が発展した地域において大きな存在となっていたことがわかるが、実はこのころが専門農協の最盛期だったのである。

◆貿易自由化 産地に危機

 1960年代後半のみかん価格の暴落は、直接的にはみかん生産の急増、需給バランスの破たんによってもたらされた。愛媛、和歌山という旧産地に加えて佐賀、熊本、長崎、福岡、大分の九州勢が急速にシェアを伸ばし、産地間競争を激化させた。しばらくは窮迫販売的増産が続き、ますます過剰生産をもたらしたが、やがて産地間の調整によって品種、出荷先、出荷時期などの「産地すみわけ体制」(麻野)が功を奏するかにみえた。
 そこに襲いかかったのが貿易自由化である。果実生産は関税と輸入数量規制によって守られていたが、1964年にレモン、71年にはグレープフルーツの数量規制が撤廃され、さらにオレンジの輸入割当枠が4万5000トンから12万6000トンに拡大された。この問題については「牛肉・オレンジ自由化阻止」の闘いが全国的に展開されたのも記憶に新しい。
 その後も続いた農産物の自由化攻勢でみかんだけでなく、基本法農政が成長農産物に指定した部門が軒並み危機にさらされた。それとともにこれらの分野に発達していた専門農協の退潮が始まり、総合農協との合併が加速した。現在では、果樹や酪農で有力な専門農協が残っているが、最も元気だったみかん地帯でもおおむね総合農協に吸収されている。

◆発展阻んだ日本の農政

 わが国にも専門農協華やかなりし時代があった。これに対して欧米では今でも専門農協が主体である。なぜだろうか。商業的農業の発展とそれに伴う地域分化、経営分化がその基礎にあることはすでに見た。それに加えて欧米の農業保護政策の充実をあげなければならない。わが国では商業的農業が発展の緒について間もなく農業保護が後退したのである。
 先回りして言えば、食糧自給率が39%にまで落ち、今またTPPなどと言っている時点で信用事業の分離や専門農協への「純化」などを説く論者が狙っているのは何か、それが農協そのものの解体であることは歴史を振り返れば明らかであろう。

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