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JAの活動:インタビューで綴る全農50年

【インタビューで綴る全農50年】第5回 今野聰 元JA全農大消費地販売推進部部長 全農の直販事業に道筋2021年11月19日

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全購連(全国購買農協連)と全販連(全国販売農協連)の合併が動き出したころ、元JA全農大消費地販売推進部部長の今野聡氏は合併に反対する全購連労働組合の委員長だった。合併後は紆余曲折を経ながらも、仕事の大半は直販事業だった。流通革命のなか、生産と消費を直接つなぐ全農直販事業の道筋をつけた一人である。(聞き手はJA全農OB、農協協会理事の坂田正通氏)

元JA全農大消費地販売推進部部長 今野聡氏元JA全農大消費地販売推進部部長 今野聡氏

――旧全購連に就職と、その後どのような職歴を経てきましたか。

1962(昭和37)年、東北大学法学部を卒業し、就職を決めかねていたとき、たまたま親戚に宮城県経済連の人がいて、オルガナイザーの仕事だと言って勧められたのが入会のきっかけです。

最初の仕事は東京支所の農業機械部配給課でした。3カ月して資材部に移り、農薬や段ボールを扱い、群馬、埼玉、山梨、そして青森県の県担当でした。農協の現場とセットなので勉強になり、楽しく仕事ができました。

1968(昭和43)年、4連労協(全中・全購連・全販連・全共連の労働組合)の専従を1年務めました。ときは経済成長の時期であり、ベトナム反戦や労働運動の高揚期でもありました。

翌年からは非専従として組合運動を続け、1971(昭和46)年に全購連労組の委員長になりました。前年の70年には全購連と全販連の合併に関する組織決定が行われており、全販連労組と一緒に合併反対闘争本部をつくって闘いました。同時に当時は、全農協労連を挙げて取り組んでいた協同組合短期大学解散反対という大きな課題もありました。

だが、全購・全販の合併問題はすでに組織決定され、合併のための手続きも進んでいました。また短大問題については、単組・全農協労連の交渉テーブルをつくったことで、1972年(昭和47)、合併問題も一緒に闘争を収めました。短大問題に関しては、収拾をめぐって闘争委員会が激論になったことは忘れられません。

その年、東京支所総合室、翌年本所直販部に異動になりました。そのころは、まさに「改革」の時代でした。米も減反政策が打ち出され、流通業界も1973(昭和48)年、マグドナルド1号店が東京・銀座に、翌年には同・豊洲に日本初のコンビニエンスストアとなるセブンイレブン1号店がオープンするなど、流通が変わる時でした。

直販部では生協を担当し、米直販事業、外食事業開発などにも関わりました。着任して驚いたのは、すでにさまざまな直販事業を検討していたことです。生産と消費を直接結ぶ直販事業は、既存の卸機能の圧縮にあります。食品問屋、卸売市場、築地(魚市場)、芝浦(食肉市場)の機能をパスすることです。食管法のもとで、米の直販はヤミ米になります。簡単な問題ではありませんでした。

しかし、当時は「流通革命」と言われた時です。農水省の中にも流通革命を進める「バイパス流通派」がいて、その支援もあって1968(昭和48)年、最初の実験として埼玉・戸田の全販連「生鮮食品東京集配センター」ができました。当時、小売業界ではダイエー、イトーヨーカ堂、西武セゾングループ、ジャスコ(イオン)などが、全国へスーパーマーケット展開を始めていました。その後、通産省の主導で日本チェ―ンストア協会などもできました。

1974(昭和49)年3月末、東京集配センター果実第2課長を経て翌年7月、全農直販(株)に異動。東京集配センターと、この全農直販(株)の二つが、合併後の「流通改革」の柱でした。既存の大卸の業務に慣れていた新しい職員は頭の切り替えができず、直販ということがなかなか理解できなかったようですが、合併して新しくスタートした全農にとっては、新しい大きな潮流が生まれたとの印象を受けました。

――全農は肥料を売るだけでなく、われわれが作ったものを高く売ってほしいという農家の声がありました。直売はそれに応えたのですね。

日持ちしない農産物の直販はリスクが伴います。直販で先行し、全販連が唯一市場価格を握っていたのは鶏卵でしたが、生鮮品の直販に敏感に反応したのは農協の店舗、つまりエーコープでした。エーコープは店舗チェーンの拡大に力を入れていました。

――その後、首都圏販売事業部販売企画室、大消費地販売推進部開発室長、1989年広報室、92年大消費地販売推進部部長と、一貫して直販事業に従事してこられました。そこから得たものは。

常に、スーパーマーケットや生協の人、外食産業の人と対等な人間関係を築きたいと考えていました。そのうえで、系統農協主導型の産直事業を目指しました。そのヒントが全農直販でした。この面では、長野経済連から大消費地販売事業部にきてパールライス、全農食品などをつくった宮下光雄さん(故人)から、多くのことを学びました。

大消費地販売推進部長のときには、難しい問題にも直面しました。取引のあるスーパーとエーコープが売り場でぶつかることです。特にスーパーでの農協フェアなど、エーコープの店長が抗議してくることも珍しくなかったです。

エーコープとの関係に3年間苦労しましたが、その後、1995(平成7)年、日本農業新聞論説室へ出向となりました。論説委員としてさまざまなジャーナリストと付き合い、論説やコラムを書くため、資料室に通うなかで、戦前から日本の農業や農協、生協などの運動にとって新聞記者が果たしてきた役割が、いかに大きいかを知りました。そうした歴史を先輩たちはあまり語っていないように感じます。

――生協とのつながりを大事に大事にしましたね。

日本の今日の生協は、戦前の自主的な消費組合と、それまでの産業組合が一緒になって1948(昭和23)年、消費生活協同組合法でスタートしました。そして昨年、労働者協同組合(ワーカーズコープ)法ができました。日本の生協運動のなかで、良くも悪くも、戦前から戦後にかけ、体制に抵抗してきた歴史がありますが、消費者は食べることを通じて未来に関わるのだと常に考えてきたのは生協です。

JAも先進的なところは同じ考えを持っていますが、この視点から生活協同組合をもう一度、総括する必要があるのではと感じています。

東京集配センターができたとき、日本生協連へ協力の申し出をしたのです。生協が全販連の事業を評価してくれたもので、これが1972(昭和47)年の、日本生協連と全農の協同組合間提携につながりました。提携が公表されたとき、直販に関わった職員のなかで、涙を流して感動した人が大勢いましたよ。

――退職後はどのようなことを。

2009(平成21)年にNPO野菜と文化のフォーラムの理事長を3年やりました。このフォーラムは1988(昭和63)年、私たちの生活や文化にとって重要な存在である野菜の文化を継承し、健康の増進に寄与することを目的に設立したものです。

コロナ禍で外出がままならず、図書館に通い、「全農食品物語」「全農直販物語」を書き上げました。次は「生協物語」を書くつもりです。

【インタビューを終えて】

今野さんは、僕が全農広報室へ人事異動になった時の前任者で、大消費地販売推進部長へ昇進して出て行った。それ以降も今野さんは大活躍である。1962(昭和37)年入会は、全購連の事業の成長期であり、採用者は100人を超えた。資材部で県担当も経験されたが、今野さんが本領を発揮したのは、全購連と全販連合併反対運動最中の労働組合委員長としての手腕だろう。一般紙でも報道された協同組合短期大学紛争の終結を見て、労組から通常の業務に復帰した。そして、消費者向けの事業に関心が向いたようだ。

出会いの年上の人に可愛がられたのは人柄か。今や故人の全中山口厳専務、全農山下(洋治)専務など、とりわけ長野経済連参事の宮下光雄さんからは貴重な人生訓を受けたという。日本農業新聞出向時には「四季」にコラムなどに健筆を振るった。現在は、NPO法人「野菜と文化のフォーラム」に関わる。

(坂田)

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