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JAの活動:インタビューで綴る全農50年

【インタビューで綴る全農50年】第8回JAの生活事業に渾身 台湾農協でも店舗指導 元JA全農生活部次長 宇野一雄氏2022年5月23日

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農業の生産資材をメインとする全農の購買事業にとって、生活資材はいわば後発部門だが、経済成長に伴う農村の生活向上に果たした役割は大きい。全購連の時代から生活部門一筋で多くの新分野を切り開き、いまの生活事業の基礎を築いた元全農生活部次長の宇野一雄氏に聞いた。(聞き手は農協協会理事の坂田正通氏)。

――宇野さんの学生時代は、戦後最大の争議といわれた三井三池争議と重なります。どのような時代でしたか。そのなかで全購連(全国購買農協連)に就職された動機は。

宇野一雄氏宇野一雄氏

宇野 九州は博多生まれの博多育ちです。教員養成の師範学校の流れを汲む福岡学芸大(現在福岡教育大)で社会科を専攻しました。当時は日米安保条約改定反対の運動が強まり、騒然とした時代でした。

同時にエネルギー革命が進んで炭鉱の閉山が相次ぎ、三井三池など多くの炭鉱のあった福岡県は労働者の配転で児童や生徒の数が減り、大学卒業時の1963(昭和38)年は教員の新採用がありませんでした。これに抗議して学芸大は全学ストライキを打って話題になったほどです。

就職に困っていたところ、たまたま姉の友人が当時の全購連福岡支所に勤めており、その紹介で試験を受けました。全購連が農協であることも知らなかったのですが、1次試験に受かり、東京での2次試験の面接に臨みました。それが私にとって初めての東京でした。面接では、1961(昭和36)年にできた農業基本法の選択的規模拡大について聞かれたことを覚えています。

月~金、農協回り

――全購連ではどのような仕事を。

宇野 3カ月は見習いで、地方の農協でも研修しました。最初の仕事は人事部で健康保険を担当しました。次の配属先は東京支所資材部受渡課でした。その後、資材課と生活課に分かれましたが、それからずっと生活事業に関わることになります。

東京支所のころは秋田、山形・庄内の経済連を担当し、購買事業の推進で回りました。遠距離の出張は夜行寝台を利用する時代です。月曜日に上野駅を発って農協を巡回し、金曜の夜、あるいは土曜日の朝帰京するという毎日でした。東北での仕事で、とにかく困ったのは農協や婦人部の人の言葉が分からないことでしたね。ただ巡回のための車を経済連に用意してもらい、夜は地元のおいしいお酒を飲み、楽しい時代でした。その後、品目担当になり、衣料、日用品、家電を推進しました。

当時の農村は、まだ全国エリアのスーパーはなく、農協による共同購入の時代でした。家電や衣料品、食品、履物、雨合羽など、組合員が生活や営農に必要とするあらゆるものを扱い、神奈川、新潟、長野など大きな県では注文のあった地下足袋を明石工場から貨車で運んでいたくらいです。東京支所では背広も扱いました。生活が豊かになって需要があり、大変好評でした。契約したメーカーは農協の需要増に対応して別会社をつくったくらいです。

また大阪支所が開発した呉服(主に婚礼用)の展示即売会も始めました。各地の温泉宿の宴会場を貸し切り、4日くらい開催しましたが、地元の農協の婦人部員が結婚を控えた娘さんを連れてくるなど盛会でした。決済は、その年の出来秋、農協の口座引き落としです。われわれは高い宿賃が払えないので展示会場で雑魚寝でした。

1963(昭和38)年大阪支所に転勤となり、農協の店舗事業に関わりました。支所でも初めての事業で、農流研(農協流通研究所)の店舗講習会や、灘神戸生協の店舗で実習しました。当時、生協は職員教育が徹底していました。よく勉強し、よく働いていたのが印象に残っています。大手スーパーはダイエーしかなかったころで、大規模な店舗を運営していた灘神戸生協の店舗事業は大変勉強になりました。

――そのころからですね。農協のAコープ店ができるようになったのは。

農協の生活店舗に「くみあい」の名称を使っているところはありましたが、Aコープチェーンとして、福岡支所が市内に1号店をつくったのが始まりで、その後、各支所に広がりました。店舗をつくったところへは食品の推進で兵庫や中四国の各県を忙しく回りました。

労組活動で人脈広げる

――労働組合にも関わられたようですが。

1971(昭和46)年、全購労大阪支部の副委員長、翌年委員長をやりました。全販連労と合同執行委員会を頻繁にやっていたので、全販連の職員との繋がりができたのもそのころです。その人脈は合併後、大いに役立ちました。

1972年、全購連と全販連が合併。合併の年の6月に、4人の副委員長の一人として全農労の中央副委員長になりました。1972年3月の合併の翌日、全国農協牛乳直販(後に全農直販)が発足し、1977(昭和52)年偶然にも全農直販へ配属されました。ミカン、リンゴ、ブドウでチルドジュース作っていました。当時、牛乳・チルドジュースやドライ食品を全農直販が製造し、スーパーと直に取り引き(直販)していました。

直販でよかったのは。4、5社のビッグチェーンの本社(本部)と付き合ったことです。勉強になったのは、大手のなかには、商談より農業の生産に関する情報を聞きたがっていたことです。それに商談のとき、約束の時間は必ず守ることの重要性を学びました。こうしたことは、東京支所で推進課長をやったときも、部下を指導する上でも大変役に立ちました。1980(昭和55)年~84年まで東京支所推進課長をやりました。

――退職後も活躍されているようですが。

その後は、全農管財常務、蓼科のリゾートホテル「国際ホテル村ユーセブン」の専務で行きました。後に倒産しましたが、当時ユーセブンの経営は、まさに「武家の商法」でしたね。全農管財で定年の61歳になり、以前(1990~92年ころ)全中を通じて台湾の農会から、店舗指導の話がきていました。国交がなかったので、台湾省の農会(農協)がJA全中に依頼してきたものです。

台湾で輸出事業も

仕事は台湾の農会の超市(スーパー)の指導ですが、酷かったですね。朝、現場をみて昼食は宴会で、夜は夜でまた宴会。30年ほど前のことですが、当時、60歳以上の農会の幹部は日本語を話せます。93(平成5)年の2月までいました。全農管財退職後も毎年、年3回くらい行きました。山地の高砂族の住む地域や台湾海峡にある澎湖島でも店舗指導しました。台湾も東海岸と南は農村地帯なので、スムーズに店舗ができました。

台湾では、農協観光のOBと、日本人を対象としたロングステイ事業を計画しました。台東県の温泉地に宿をつくるため台湾旅行協会へ行って交渉しましたが、やがて国民党の馬英九政権が日本との関係を切ったので、おじゃんになりました。その後、政権が変わり、復活の話が出ていますが...。

現在はNPOの活動の一環として台湾に農産物輸出をやっています。直接、日本の農家から集荷しています。昨年、佐賀県の無農薬ミカンを輸出しました。日本の商品は人気ある台湾の商社も積極的です。リンゴも日本産が最高で、青森県のヤマイモは、日本では規格外の大玉が人気です。

いま中小企業のための「経営支援NPOクラブ」のアドバイザーをやっています。経営相談や販路開拓の手伝い、次世代育成支援などを目的とするモノづくりを支援するNPOです。昔のツテなどを使い、農産物販路開拓などの支援をしています。

さまざまな業種の人や企業があり、それらが融合して新しい事業ができます。福島県で農泊の事業もやっています。いま100の力があるとすれば、全農の経験は30ほどで、残りの70は、NPOで得たものです。

生まれ変わっても全農に

――全農の40年あまりを振り返って、いまの心境は。

言いたいことを言い、やりたいことをやってきたと思います。生まれ変わっても、やはり全農を選ぶと思います。全農の仕事では支所制のころがやり易かったですね。JAは道州制も視野に広域合併をめざすべきだと思います。また、いまの農業生産の実態をみると、(法律の問題は別として)JAみずから農業をやり、新しい就労の機会をつくるなどで活性化をはかる必要があります。さらにJAの信用・共済の強みと生協のメインである生活事業を結びつけて地域を活性化することがあってもいいのではないでしょうか。

〈インタビューを終えて〉
全農生活部のOBが20年前につくった料理教室(今は「いなほ料理教室」)に誘われて宇野さんと知り合う。宇野さんは、全中による台湾への農協店舗指導にかかわった。それ以来、台湾へ講師として今でも呼ばれれば出かけていく。生来人付き合いが上手で、定年退職しても日本からの指導者として信任が厚い。昔、全農に研修生として来て、宇野さんが世話した人が台湾の政府高官になっているご縁もあるようだ。
全農のキャリアは生活部一筋だが、Aコープ店舗や全農直販事業など新しい業務の立ち上げ時には当時の鳴海国輝・山下洋治両全農役員の意向を受けて現場へ派遣され、活き活きと仕事されていたことがインタビューで分かる。その後の懇親の席で、生活部次長で全農を離れたのに部長の審議役の職位があったのは宇野さんだけではないかと話題になった。生まれ変わってもまた全農のような職場で仕事をしたいなあという。

(坂田)

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