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特集:自給率38% どうするのか?この国のかたち -食料安全保障と農業協同組合の役割

2018.09.27 
第2回 繰り返された沖縄の食糧危機【普天間朝重JAおきなわ代表理事専務】一覧へ

 JAcomでは、「食料自給率38%どうする?この国のかたち」をテーマに日本の食料安全保障問題について、さまざまな角度から掘り下げる特集企画を連載している。今回は日本の食料生産基地である農業地域を支えている農業協同組合の立場から、この問題を、普天間朝重JAおきなわ代表理事専務に執筆していただき、3回にわけて掲載する。第2回目の今回は、農村ですら食料がなく野生の蘇鉄を食べた「ソテツ地獄」を振り返る。次回、最終回では離島から中山間地までくまなくカバーする日本の農協の果たす役割について提言している。ぜひ第1回もあわせて全文を読んでいただきたい。(写真は蘇鉄の実〔イメージ〕)

◆芋さえも食えず死の危険隣合せ

猛毒を持つ蘇鉄(そてつ)の実 食糧危機に関する沖縄県での事例を紹介しよう。
 1923(大正12)年におこった関東大震災や、1929(昭和4)年におこった世界恐慌により「昭和恐慌」とよばれる慢性的な不況が日本をはじめ沖縄の人々の生活を襲った。当時の沖縄の人口の7割が暮していた農村部では極度の不況のため米はおろか芋さえも口にできず、多くの農民が野生の蘇鉄(そてつ)を食糧にした。
 毒性を持つ蘇鉄は、調理法をあやまると死の危険性があるにもかかわらず、その実や幹で飢えをしのぐほかないほど農村は疲弊しきっていた。20万年前に誕生したホモサピエンスが16万年前の大氷河期でアフリカの大部分が砂漠化し、食糧難で南アフリカ海岸に追われ、これまで食べたことのない貝を食べて生き延びたことがまるで日常の光景に思えるほどだ。沖縄では当時の状況を「ソテツ地獄」とよんでいる。

(写真)猛毒を持つ蘇鉄(そてつ)の実

 

◆繰り返されたソテツ地獄

【普天間朝重JAおきなわ代表理事専務】製糖小屋が復活 戦後、沖縄の砂糖生産は戦前の24.5%に落ちたが、昔なつかしい馬力と原始的な圧搾器を使うサーターヤー(製糖小屋)も復活した。(「写真にみる沖縄戦後史」より) その10年後には今度は第2次世界大戦に巻き込まれていく。戦後の経済活動は「ゼロからの出発」となり、住民は当面は配給物資でしのぐことになるが、何にしても食うためには農村の復興が緊急課題であった。しかし、農地は戦争で荒廃し、農村は金詰まりの状態にあり、食糧危機は深刻の度を増していた。
 例えば、離島の伊江島では「昨年7、8月の旱魃のため甘藷作は虫害80%という惨害を受け、加えるに寒冷季の暴風雨はこれに拍車を加え、芋の植付面積が狭小な同島では全面的に主食の欠乏を来し、村民の約8割が3食とも蘇鉄(そてつ)食をとらねばならない窮状にある...」(うるま新報 1949年4月11日)という状況だった。戦前の蘇鉄地獄の再来である。
 また、一部の米地帯では業者による青田買いも横行していた。「換金作物の少ない北部では台風被害に基づく食糧難と飼料不足による養豚業の停止等で現金収入が少なく、1か月くらい前から噂されていた青田売買の現象が表面化してきている。...値段も籾百斤で800円から900円といわれている。籾百均というと、精米すれば1700円にもなる。つまり2か月も待てば倍額の収入になるにもかかわらず捨売りしている」(沖縄タイムス 1952年5月18日)という状況であり、続けて「それからみても信用協同組合を育成強化することは焦眉の急務と云わねばならぬ」(同)として信協の役割に期待している。
 このため米軍政府(当時の沖縄統治機関)や琉球政府では農協組織を形を変えながら(農業組合→農協・信協併存(単営)→総合事業としての農協)組成し、配給物資の供給や資金の供給などの業務にあたらせ、戦後の混乱を乗り切った。

 

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