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コラム:小説 決断の時―歴史に学ぶ―

【童門 冬二 / 歴史作家】

2016.02.16 
信念か友情かの選択 大谷吉継一覧へ

 大谷吉継は豊後(大分県)の出身だ。領主大友宗麟に仕えていた。天正のはじめごろ大友家を出て上方に向った。先見力に富むかれは新しく出現した天下人織田信長に、大きな魅力を感じたからだ。

◆時代を読んで三成と死友に

(挿絵)大和坂  和可  現在(いま)"グローカリズム"という言葉がある。日本人は地方(ローカル)人・国民・国際(グローバル)人の三つの人格をもっているという発想だ。しかし戦国時代には、"国民"という人格を対象とする政治家がいなかった。地域での勢力拡大に腐心する地方大名ばかりだった。信長はこの空白に目をつけた。かれは"天下人"となのった。天下人とは、「天下事業(国政)を担当する政治家のことである」と定義した。その周知と協力を求めて、中国地方には腹心の羽柴秀吉が派遣されていた。吉継はいつのころからか秀吉の家臣になっていた。吉継の吉は秀吉から与えられた名だ。秀吉への仲介者が石田三成だったからだ。三成は秀吉の寵臣だった。
 吉継が秀吉への就転あっせんを頼んだときの三成はまだ十五歳である。しかし近江人特有の経済感覚にすぐれていた三成は、
「これからの武将にはソロバンも大切だ」
 と、信長ゆずりの発想をもつ秀吉にとって三成は
「こんご期待できる家臣像の実現者」
 のひとりだったのである。このあっせんに恩を感じた吉継は、三成と"死友"の誓いを結んだ。死友とは生前はもちろんのこと、死後も盟友の立場をつらぬくという間柄をいう。
 信長の死後天下人になった秀吉は、三成に近江佐和山で十九万石を、吉継に越前敦賀で五万石を与えた。その秀吉が死ぬと吉継は徳川家康に接近しはじめた。単なる保身のためではない。
「この国(日本国)を平和に治める天下人は、徳川殿以外いない」と判断したからだ。秀吉の子秀頼ではその事業はとてもムリだ、と吉継は感じていた。国内の大名だけでなく、朝鮮政府もそう考えていた。家康は秀吉の朝鮮出兵に、自分の部下はひとりも参加させなかった。この事実を知る吉継は、
「長い戦乱に疲れ果てた国民が、待望する天下人は徳川殿だ」と、世論の動向を読んでいた。だからかれはそのころ家康が発案した、「会津の上杉景勝征伐」にも参戦し、軍を率いて出発しかけていた。上杉討伐の命令は豊臣秀頼が下した。したがって家康の軍は徳川軍ではなく豊臣軍である。家康に同行する大名もすべて豊臣軍だった。
 吉継はその軍に合流すべく敦賀から近江に入り、美濃に下って垂井(たるい)に着陣した。宿痾の業病が進行しかなりつらい状況だった。鼻から膿が垂れる。かつて秀吉が譜代大名を招いて茶会をひらいた。席上茶碗のまわし飲みがおこなわれた。吉継のところに茶碗がきた時、膿が茶碗の中に落ちた。サッと異常な緊張が席に走った。この時、
「大谷、その茶碗をわしにくれ」
 といって茶碗をうけとり、一気にグッと飲みほしたのが三成だった。吉継は死友のありがたさを身にしみて感じた。


◆苦しい決断

 しかしその三成は現在失脚中で佐和山城で謹慎中だった。失脚の理由は、朝鮮で日本軍が交戦中、三成は秀吉から「軍監」として派遣された。三成はきびしく視察し、大名たちをほめなかった。
「陣中で碁を打っていた」
 などと実名をあげて秀吉に報告した。そのため内地召喚・叱責・謹慎などの処分をうけた者もいた。怒った大名たちは秀吉の死後、「三成を斬ろう」と結託して三成を追いまわした。三成は逃げまわり、こともあろうに家康の邸に逃げこんだ。家康はニンマリ笑い、
・三成は現職(奉行)からしりぞく
・佐和山城で謹慎する
・当分の間大坂城に出仕しない
 という条件を三成に守らせ、怒っている大名たちを説得した。秀吉死後、専横のふるまいの多い家康を三成ははげしく攻撃していた。家康にすれば自分に噛みつくうるさい犬を、恩に着せて佐和山城に閉じこめてしまったことになる。こういう事情を知っているから、吉継にしても三成は当分大人しくしているだろうと考え、家康にも恩を感じているはずだと推測した。だからこんどの上杉討伐で家康に同行することも、三成はそれほど気にするまいと踏んでいた。誤算だった。
 夜、垂井の陣に三成の密使がきた。
「上杉家の家老直江兼続と密約を結び、家康をはさみ討ちにする。ぜひ協力してほしい」
 という。吉継は仰天した。思いもしない展開だ。吉継は考えこんだ。
「信念を貫くか、友情を重んずるか」
 重大な二者択一の決断を迫られる場に追い込まれたからだ。翌朝、吉継はさわやかな気分で決断した。それは、
「三成の味方をしよう」
 ということであった。この国のためには家康が天下人になることが、国民が一番よろこぶ。自分はその手伝いをしよう、といういわば公心を捨てて、三成との友情に殉じようという私心を選んだのだ。しかし吉継に後悔のきもちはなかった。
(これが天命なのだ)と思った。
 その朝吉継は近江に戻り、直接佐和山城に行って自分の決断を三成に伝えた。三成はよろこんだ。
「これで勝てる」といった。
「なぜ勝てるのだ?」吉継はきいた。
「秀頼公がお味方して下さる」
「秀頼公はご出馬にならない」
「なぜそんなことがわかる?」
「徳川殿が手を打った。おぬしが頼りとする毛利輝元殿も大坂城からは出てこない」
「そんなバカな!」三成は憤激した。吉継のいうことが本当なら目論見は大きくはずれる。いやこの合戦は敗北する。吉継は続けた。
「おぬしは頭だけでものを見る。しかし現実はそんな甘いものではない。泥々としたみにくいものだ。おぬしはそれを読む力に欠けている」
「そんなことは誰も教えてはくれぬぞ。おぬしこそ読みちがえているのではないか」
「いや、これが事実だ。徳川殿と戦ってもおぬしは敗ける」
「なぜそんなことをいうのだ? 家康の奴は故秀吉公と誓ったことを片端から破っているではないか! 義はこの三成にある」
「義はあってもおぬしには足りないものがある」
「何だ」
「人望だ。おぬしに人がついてこないのはそのためだ。たとえタヌキおやじといわれても徳川殿にはそれがある。だから多くの大名が味方するのだ」
「それほど事情がわかっているのに、ではおぬしはなぜわしの味方をするのだ?」
 泣き叫ぶように三成はいった。吉継の言葉でかなり現実を理解したのだ。吉継はしずかにいった。
「友情だ。おぬしとは死友だからだ」
「......」
 三成は沈黙した。黙って吉継の顔を凝視した。やがて肩をふるわせ涙をこぼした。そして「済まぬ」といった。
 慶長五年九月十五日、大谷吉継は関ケ原で激闘し、壮烈な討死をとげた。輿(こし)に乗っての指揮だった。四十二歳(かぞえ)だった。

(挿絵)大和坂 和可

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