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決断続きの歌人大名 細川幽斎2017年3月10日

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【童門 冬二(歴史作家)】

◆最初の決断

 細川幽斎は戦国時代の文化大名だ。歌道に明るく、かれ自身もしきりに作歌した。代々足利将軍家の重臣だった。しかし幽斎は仕える主人をつぎつぎとかえた。最初は将軍足利義昭に、つぎは織田信長に、そして豊臣秀吉に、さらに徳川家康にと仕えている。そのため周囲では、
「幽斎は世渡り上手だ。文化人のくせに節操がない。わが身大事でそのためには世話になった旧主人をつぎつぎと捨てている」と、そのエゴイズムを批判された。
 が、幽斎にすればこの批判は当たらない。かれは世間でいう文化、即ち歌道を守りぬくために、終始主選びをしなければならなかったのだ。そしてその主選びの過程では、必ず思い切った決断が必要だった。"世渡りがうまい"と非難されるかれの生き方は、実をいえば"決断"の連続だったのである。
 最初の主人足利義昭を捨てて、織田信長に移ったのは、義昭が信長の支援によって将軍になれたのに、その信長を家臣として全国の大名を自分の思いのままに支配しよう、としたからだ。
 戦国は"下克上"の社会だ。底辺からの盛り上がりが凄まじい。古代中国の名君唐の太宗は
「治者は船だ、被治者は水だ」
といいきった。権力者である王や侯(大名)が、よい政治をおこなっていれば被治者の水(民)は、黙って従い静かに波も立てず船を支えてくれる。しかし一旦民を苦しめる悪政を行なえば、水は怒って波を立て、場合によっては船をひっくりかえしてしまう。水(民)はそれほど恐ろしい存在なのだ。
 この船と水の関係をお互いに認識し、やわらかい折り合いの知恵を湧かせるのが、幽斎にすれば文化だと思っている。だから戦国のギスギスした船と水の関係をやわらげ、難問に対しても両者の知恵を出しあって、双方の利益になるような解決策をみつけるのも「それは文化の心だ」と幽斎は信じている。そしてその文化の一分野である歌道を選んだのだ。
 そういう幽斎の姿勢に感動した歌道の権威が幽斎に、「古今伝授」の資格を与えた。いわば「歌道のパテント(特許)」のようなものだ。幽斎は日本国内で最高の歌人にランクされたのだ。
 信長が明智光秀に殺された時、光秀はすぐ急使を幽斎の所によこした。急使がもたらした手紙にはつぎのようなことが書いてあった。
・近頃の信長の非人間的ふるまいはとてもみていられない
・万民のために勇をふるって自分は信長公を殺(しい)た(殺した)
・ついてはこの国(日本国)を二分し、半分は光秀が、もう半分は忠興殿が領するようにしたい。秀吉が私を攻めかかっている。ぜひ味方してもらいたい
 幽斎の子忠興は光秀の娘玉(たま)を妻にしている。子の結婚は信長が仲介したもので仲人も信長がつとめた。だから忠興は光秀の婿になる「どうしますか?」 忠興は父の幽斎にきいた。幽斎は「もちろんことわる。おまえは秀吉殿の見方をして明智をほろぼせ」と告げた。そして髪を剃し出家して「幽斎」と号した。あくまでも信長の霊を弔うつもりだ。光秀には「どのような理由があろうとも、主殺しの逆臣には味方できぬ」という返書を送った。
 そして忠興には「玉を離縁せよ。しかし実家には戻さずに丹波(京都府)の山奥に幽閉せよ」と命じた。文化大名の名をかなぐり捨てて、荒波に立ち向かうきびしい勇将ぶりを発揮した。
 つぎに幽斎が決断力を発揮したのは関ヶ原合戦の時だ。徳川家康と石田三成の争いだ。忠興ははじめから家康に味方した。三成を憎んでいたからだ。幽斎もこれを了とした。

◆最後の決断

 幽斎はいまこの国の悲願は「毎日のくらしの安心安全」であることを知っていた。それには一日も早く戦乱状態を終え、全国を平和にしなければならない。その能力は秀吉の子秀頼にはない。家康ならできる。そこで幽斎は忠興に「心おきなく徳川殿を援(たす)けよ。留守は守る」と告げた。
 当時、細川家は山陰の、いまの舞鶴市近辺を領し、田辺城を拠点としていた。軍勢の大半は忠興にひきいさせ、幽斎は五、六百人の兵を預かった。城下町の住民は農村からの避難農民もすべて城に収容した。圧倒的に老人・女性・子どもが多い。幽斎自身も高齢だ。しかし幽斎は
 「この人びとを守りぬくのも領主(忠興。幽斎は信長が殺された時に隠居している)の父としての義務だ」と心を決めていた。城はすでに石田三成に味方する大名軍にかこまれた。その数は二万人をこえている。こっちは五百人だ。敵いっこない。落城は目の前に迫っている。
 しかしこの時の幽斎は文化大名というよりも勇猛な戦国武将の立場に戻っていた。
(力の限り戦う。一度決断した以上、絶対に降伏はしない)と心をきめていた。幽斎を慕って城に入った非戦闘員達は、落城前に敵に頼んで城から出すつもりでいた。田辺城の最後はもはや時間の問題だった。
 そんな時に京都御所から公家がやってきた。「八条院宮の使者である」 公家はそう名乗った。城をかこむ石田軍は道をひらいた。城中で幽斎に会った公家はこういった。
「条院宮様が細川殿のことをひどくご心配なさっている。もうひとつは歌道に熱心な宮は、細川殿がお持ちの古今伝授のことを気に掛けておられる。もしも細川殿が城と運命を共になさるようなことが起れば、伝授の伝統もそこで絶えてしまうからだ」「で?」幽斎は公家にきいた。「私にどうしろと」「降伏してほしい」公家はそう答えた。幽斎は笑い出した。「それは駄目です」「なぜ」「いまの私は歌人である前に武士です。家臣や農庶民を捨てて、自分だけたすかろうなどとは、これっぽっちも考えておりません。降伏はいたしません」「しかし」「伝授のことならご心配なく。すべて書面にて八条院宮様にお渡しいたします」
 言葉どおり幽斎は引継書をつくった。古今伝授のパテントはこうして八条院宮に引き継がれた。公家は安心して御所にもどっていった。しかし城に残る幽斎の今後を考えると心は重かった。
(挿絵)大和坂和可  敵の攻撃は一斉に火蓋を切った。大砲を撃ち始めた。このころの砲弾は鉄の塊だ。爆破でなく、対象物をブチこわすのがその性能だった。櫓や建造物がつぎつぎと倒壊するので、城中の農庶民とくに女性は悲鳴をあげた。幽斎はいよいよ最後の時がきた、と覚悟した。切腹するつもりだ。
 ところが砲声が急にやんだ。城壁からのぞくと敵は砲撃をやめ、城から遠ざかっていく「どうしたんだ?」とささやきあっていると、また公家が入城してきた。
「勅使である。天皇の命によって両軍に停戦を命ずる」
 公家はおごそかにそう告げた。
 落城寸前に八条院宮に古今伝授した幽斎の奥床しさに感動した天皇(後陽成)は、側近に「細川を助けよ」と命じたのだ。慶長五(1600)年九月十二日のことだった。家康はそこまで石田軍を食い止めた幽斎に感謝した。戦後忠興に与えられたほうび(九州小倉城主)は幽斎へのものと周囲は噂した。
(挿絵)大和坂和可

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