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コラム:昔の農村・今の世の中

【酒井惇一・東北大学名誉教授】

2020.01.30 
【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第85回 昭和初頭の動力籾摺機・精米機一覧へ

 地主と小作人の間で交わされる小作米の量、質、納付期日の契約、小作人はこれを何としてでも守ろうとした。守らなければ小作地を取り上げられる等の危険性があるからである。しかしお天気次第の農作業、しかも手労働ではその要求に応えるのはきわめて難しかった。足踏み脱穀機の導入でスピードアップしたといっても秋の長雨などにあうと作業は遅れ、納付期日がまもれなくなる恐れがあるし、米質が悪くなるときもあった。もちろん、小作農ばかりではない、自作農にしてもこれでは困る。

 こんなところに登場したのが、動力籾摺機であり、動力脱穀機だった。昭和初頭のことだった。

20190606 コラム 昔の農村・今の世の中 見出し画像 私が物心ついたころ生家ではこの籾摺り機を使っていたのでそういうものだと思って何も考えなかったのだが、今考えてみるとこの機械はたいしたものだった。といっても籾摺り機の構造や仕組みはすべて目に見えるわけではないので子どものころの私にはよくわからなかったが、子どもの目で見、記憶にまだ残っていることで何とか説明してみよう。

 まず籾摺りそれ自体だが、幅20~30cm、長さ3mくらいのゴム製の大きな輪(ロール)を二つ重ね合わせ、その隙間に籾を少しずつ入れる(隙間の入り口に籾を入れる容れ物があり、そこに入れた籾が自動的に隙間に落ちるようにしてある)、その二つのロールを電動機(もしくは石油発動機)で若干違った速度で回転させる、その速度の差によって籾の表面を覆う籾殻を摺り落とし、玄米にするというものである。

 そうやって摺り落とされた籾殻と玄米、まだ摺り落とされず残っている籾はいっしょに上から長四角の金属製の網の上に落とされるが、落とすところに風が少し吹いていて(どこで風を起こしていたか忘れてしまった)軽い籾殻は外に吹き飛ばされ、玄米と摺り残った籾だけが網の上に落ちる。その網は傾斜していて軽く振動させられており、それによって玄米や未熟粒、砕け米は網の目をくぐって下に落ち、粒が大きい摺り残りの籾だけが網の上に残り、またゴムロールのところに戻されて改めて籾摺りされる。

 さて、編み目から落ちた玄米と砕け米・未熟粒は網の下にあるもう一枚の長四角の網(網目は上のより小さい)の上に落ち、これまたその振動で未熟粒や砕け米は編み目から下に落ちる。

 こうして玄米だけが下段の網の上に残り、それが編み目の上をゆっくり落ちていき、そこで待っている箕もしくは大きな枡に入り、籾摺りは完了、できた玄米は貯蔵され、やがて精米されて小作料や販売、自家用に向けられることになる。

 こんな不正確な説明ではおわかりいただけないだろうし、間違いもあるかもしれないが、私の記憶の限りでは、ともかく砕けた米などはきわめて少なく、籾殻などもまったく残らず、きれいな玄米が(青米など若干の未熟粒はあったが、これは後に米選機等で振り落とされた)できあがって出てきていた。

 今考えても不思議である、よくもまあ考えたものだ、日本人もたいしたものだと感心していたものだった。

 当然のことながら、地主はこのような性能のいい機械で籾摺りされた米を小作料として納めるよう要求する。高く売れるし、自分で食べてもうまいからだ。農家も、小作であれ自作であれ、できればそうしたい。砕け米が少なくなるので収量が増えるからだ。

 しかし、そんな機械を買うお金はない。小作人などましてやだ。でも、従来通りのやり方で籾摺りした米は地主は受け取らないという。


 こうしたところに生まれたのが、前に述べたような賃摺り業者だった(注)。小金をもっている商人や農家が籾摺機と発動機を購入し、機械を持たない農家の籾摺りを料金をとって受託して回るようになったのである。金はかかるけれどやむを得ない、農家は業者委託という形で機械を利用するようになった。

 なお、これまた前に述べたこと(注)だが、私の生家では隣近所の農家数戸と共同でモーターと電動籾摺機を購入し、持ち回り利用をしていた。

 同時に、電動の精米機も同じメンバーで共同所有、持ち回り利用していた。機械精米をして政府による米の検査に通った米でないと小作料として地主が受け取らなかったからだったが、自作農にしても米(こめ)搗(つき)臼(うす)に玄米を入れて杵でつき(川がないので水車など利用できなかった)、千石通しにかけて糠や小米と白米とに選別する労働の大変さからの解放と精米の精度、販売との両面からして機械精米が有利だったということからなのだろう。


 精米機は、小学校低学年の子どもの背丈(当時のことだから今よりかなり低かった)くらいもあるような直径数十㎝の金属製の漏斗(じようご)のような面白い形をしていた。それを上からのぞくと、底の方に直径10㎝、長さ20㎝(くらいではなかったろうか)の幅の広いネジが見える。そこに玄米を2斗(30キロ)くらい(もっと多かったかもしれない)入れ、この精米機とベルトでつながれだモーターを回すと底のネジが回転する。その回転で玄米が上に上がったり下がったりし、そのときの摩擦で精白され、つまり糠が剥げ落ち、それが真下にある目の細かい網をくぐり抜けて落ちる。これが何回か繰り返されてできあがったばかりの白米は、摩擦熱で少し温かく、しかもいい匂いがする。この匂いが大好きだった。


 この動力籾摺機と精米機、そして次回述べる動力脱穀機、これがわが国の稲作における機械化の始まりだったと私は思うのだが、よくもまあ考案したものだと思う。しかしその機械化は農家の労働の軽減、所得増大のためではなく、地主、商人の利益のためのものだった。ここに限界があった。

(注)2019年7月25日掲載 「籾摺りと俵詰め」参照

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酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】



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