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救荒作物・主食としてのソバ【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第109回2020年7月30日

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【酒井惇一・東北大学名誉教授】

コロナコロナで世の中は大騒ぎ、毎日毎日の雨で憂鬱なところに水害、東北ではさらに冷害まで心配される今日この頃、早く世の中もとに戻って普通の暑い夏になり、冷たい冷たいざるそば、ところてん、かき氷(私たちは氷水と呼んでいたが)をおいしく食べたいものだなどと考えていたら、突然ソバの話を語りたくなった。そごでここしばらくはソバとそこから連想したことについて語らせていただきたい。

昔の農村今の世の中サムネイル・本文

「秋ナスは嫁に食わすな」
これは昔から伝わる有名な言葉だが、これに二通りの解釈があることもよく知られている。
まず、秋ナスは非常にうまい、こんなうまいものを憎らしい嫁には食わせたくないという「嫁いびり」の言葉だという解釈である。
もう一つは、秋ナスはおいしくて食べ過ぎてしまい、身体を冷やす恐れがあるので、大事な嫁には食べさせない方がいいという「嫁思い」の言葉だというものである。
この両者のいずれが正しいかは別にして、たしかに秋ナスはうまかった。皮が固くなり、身が締まってうま味が増したような感じがしたものだった(一年中店に並ぶようになった最近はあまりこういう季節感は感じなくなったが)。
今から二百年も前の初夏のこと、ある農家が二宮尊徳のところにナスを持ってきた。うまい。秋ナスのようなうまさだ。尊徳はすぐに村の農家を集めて言った、今すぐに稲を刈り取れと。稲はまだ青々していて穂も出ていないのにである。続けて言う、刈り取った後にソバを植えろ、今年はまちがいなく冷害になる、ナスが秋ナスと同じくらいうまいことはそれを示していると。半信半疑ながら農家はそれにしたがった。たしかにその夏は寒く、米はほとんど取れなかった。しかし、ソバはある程度の収量が得られ、おかげでみんなは餓えないですんだ。
こういう話を、小学五年のとき(敗戦の翌年)、子ども向けの週刊新聞(『少年タイムス』という名前ではなかったろうか、母が私のためにとってくれたのだが、そのすぐ後に私たちを残して死んでしまった)の連載小説で読んだ。それが衝撃的だった(もしかすると記憶違い、別の本で読んだのだったかもしれないがのたぜが)。実際には、田んぼの稲ばかりでなく畑の綿も刈り倒せ、そして田んぼにはヒエ、畑にはソバを植えよと尊徳は言ったらしいのだが、なぜか私は田んぼにソバとしか記憶していない。それはそれとして、ソバというものは寒さに強い作物、短期間で育つ作物なのだということを私はそれで知った。
そしてこうしたソバのような作物を「救荒作物」と言うことを知ったのはかなり大きくなってからだった。ソバは「天候不順で不作になる年でも短期間で一定の生産量が得られるので、不作時に飢えをしのぐために、主食となる作物の代わりに栽培される作物」と位置付けられていたのである。

宮城県北の米どころ金成町(現・栗原市)の農家出身のAKさん(中国語研究者、もう亡くなられたが、私より5歳くらい下である)があるときこんな話をしてくれた。
小さいころ(1950年代)、3年に一度ソバを畑に植えたものだった。収穫して一定量の種子を採って保存しておき、何かあったときはそれを植える、何事もなく3年間過ぎたらその種子を撒いて新しく種子を採り、また3年間保存する。つまり何年もおくと種子が古くなって発芽率が悪くなるので、3年に一度種子の更新をしながら冷害などのときに植えられるように保存しておくというのである。
こうして種子を採り終わった後に残ったソバの実でお祖父さんがそばを打ってくれた、これはおいしかった、今でも忘れられないとAKさんはいう。そうかもしれない。まさにそれは混じりけなしの新そば、3年に一度のごちそうだからだ。大人にとっても、何かあってソバを植えたりしなくともすんだということなのだから、味は格別だったろう。
こうして凶作に備えた。まさにソバは救荒作物として位置付けられていた。ソバは冷涼な気候でもよく育ち、生育期間は2~3ヶ月と短かく、夏も秋もとれたからである。

このソバ以外に救荒作物として位置付けられているものにヒエ、アワがあった。しかし、そう位置付けられているのは気候の温暖な地域においてだけだった。山間高冷地帯、積雪寒冷地帯などでは救荒作物・非常時の作物ではなく、それらは主食、常食として位置付けられ、毎年作付けされてきた。そしてこのヒエ、アワと同様にソバも主作物の一つ、主食の一つであった。
冷害常襲地帯の岩手県北上山地などでは毎年冷害は来るものとして植えておかなければならなかった。もちろん主食はヒエである。しかしヒエだけを植えるわけにはいかない。ヒエも天候不順に強いという意味では救荒作物なのだが、米と違って連作できず、それだけ植えるわけにはいかないのである。そこで輪作作物として入れられたのが大豆とソバだった。
ソバは土壌をあまり選ばず、適応性があったからである。それでヒエ―麦―ソバの輪作体系はヒエ―麦―大豆と並んで北上山地の主要な作付体系となり、ソバはヒエ、麦と並ぶ主食の一つとなっていたのである。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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