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【追悼・山口巖さん】農協人の気概と誇り示す2014年10月10日

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北出俊昭・明治大学元教授、農協協会理事

 山口巖さんは平成26年9月18日逝去された。94歳であった。山口さんの人柄はその経歴からもうかがい知ることができる。大正8年生まれの山口さんは、陸軍将校として南方に派遣されたあと敗戦で帰国し、最初に就職されたのが神奈川県指導農協連で、昭和24年であった。その橋本支所長時代に戦後初といわれた農協青年部を組織されたのである。

fuho1409241401.jpg その後山口さんは全国農民連盟の常任書記となって「労農提携10円牛乳運動」に取り組み、全中に酪農対策部が新設されると嘱託となり、中央酪農会議の初代事務局長として出向された。さらに全国牛乳直販(後の全国農協直販)が設立されると専務理事に就任されたが、49年に全中に常務として復帰され、57年には専務理事となり平成元年まで務められた。この間29年間蔵王酪農センターの理事長の職にあり、また平成2年?8年は協同組合経営研究所理事長でもあった。

◇    ◇

 ここから指摘できる特徴の一つは、山口さんの多彩な経歴は自ら望んだものではなく、それこそ「三顧の礼」で強く求められた結果だったことである。それは全国農民連盟の常任書記は参議院議員河野謙三氏と当時全中農政部長であった千石虎二氏の強い推薦があったからであり、全中常務就任は宮脇朝男会長の懇請であったことをみても明らかである。
 いま一つはそれとも関係するが政官財に知己が多く広い人脈があり、支持者も多かったことである。山口さんは酒を愛されたが一緒に飲んだ時は大蔵、農林の高級幹部とのエピソードや自民党、社会党議員についての独特な人物評をよく話された。
 いずれにしても山口さんの毎日は多忙を極めていた。一度「俺の手帳は縦書きだ」といわれたので見せてもらったが、本当に毎日の欄にはすべてスケジュールが縦書きの分刻みで記入されていたのをよく覚えている。
 山口さんが活躍されたのは、戦後の農業・農政が大きな転換期にある時期であった。そのため範囲も多様であったが、そのなかでとくに次のことについて述べておきたい。
 まず第1は酪農問題についてである。そのなかでも最も重要なのは蔵王酪農センターの設立であった。昭和35年、山口さんの努力で酪農電化センターが設立され、厚木市に酪農近代化のモデル農場が開設されていたが、それが蔵王に移転したのが酪農センターであった。現在蔵王酪農センターは採草地、放牧地だけの合計で65haの規模となっているが、その用地取得で山口さんは決定的な役割を果たされた。その苦労話は当時よく聞かされたが、山口さんの人脈を活かした努力がなければ今日の蔵王酪農センターはなかったということもできる。山口さんが2代目理事長として29年間もその地位にあったのも当然であった。

◇    ◇

 昭和40年に制定された加工原料乳不足払い法についても山口さんは大きな役割を果たされたが、牛乳問題では何といっても農協直販による「成分無調整」と「自然はおいしい」を強調した「農協牛乳」である。これは山口さんの企業者的センスにより初めて可能であったのはいうまでもない。
 山口さんが全中常務に就任された当時農協組織は市街化区域内農地の宅地並み課税、東京ラウンドと日米農産物交渉、全米精米業者による日本の米輸入提訴など、重要な農政問題に直面していた。山口さんはその先頭に立って戦われたが、いまでも昨日のことのように覚えているのは日比谷野外音楽堂でのコメ輸入反対集会で「一粒たりとも輸入すべきではない」とその決意を示されたことである。その後中央マスコミなどはこの発言を意識的に曲解して宣伝しているが、私は山口さんの信念がその一言に凝縮されていたと思っている。
 山口さんは蔵王酪農センターの冊子で「緑の旗を振る野武士」として紹介されているが、農協協会の農協人文化賞を受賞された際も、「私は若い頃から『百姓をいじめると国は亡びる』といい続け、『団体屋』を自称してきた」と述べられている。まさにその気概と誇りがそのまま示されたのが前述の発言である。そしてその後の経過をみると山口さんの発言の重要性が一層際立ってきているといえる。

◇    ◇

 また、山口さんが対外広報を極めて重視され、専務として特別に広報を担当されていた。そのため広報部のときは山口さんと相談しながら、テレビへの出演やスポーツ紙も含めたマスコミ関係者および財界の責任者と話し合う機会を意識的に設定したが、その際山口さんは自らの意見を率直に、しかも理路整然と述べられた。そこにはいつも「団体屋」としての自負と信念が感じられたが、そのため山口さんの意見についての賛否の如何にかかわらずお互いの理解が深まり、不思議にみんなの気持ちが一体化した雰囲気となったのを覚えている。
 すべての役職を退かれたあと数名の後輩による山口さんを囲む「飲み会」が生まれた。この会は山口さん指定のゆかりの場所で開催されたが、後輩にとっては山口節を肴にした楽しいひと時であった。会は毎年1回ひらかれ、山口さんの健康が許さなくなるまでの数年間続いたが、山口さん以外の全中役員で退職後後輩によるこうした会は寡聞にして知らない。そこに「ガンさん」として親しまれた山口さんの人柄が示されていたといえる。
 山口さんは「団体屋」を自称されていたことは前述したが、「農協役職員はオルガナイザーであれ」ともいわれていた。現在、「解体」ともいえる農協改革が進められており、それに如何に対応するかが全国の農協役職員に問われているが、山口さんの遺志を尊重した信念のある取り組みが強く求められているといえよう。

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