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シリーズ:農協のかたち

【太田原高昭 / 北海道大学名誉教授】

2013.04.27 
日本の歴史的経験をふまえていた産組法一覧へ

・品川弥二郎と平田東助
・ライファイゼン型信用組合がモデル
・事業別専門組合方式だった産組法
・地主や商人の参加も可能
・国内の実践を取り入れた立法

 産業組合法は、難産の末ようやく1900年に成立した。支配層は、当初から組合組織に対する根強い警戒心を持っていた。
 産組には地主はもちろん商人も入っていて、彼らの関心事は信用事業だった。このため、ほとんどが信用組合で、販売、購買、生産組合は少数だった。
 信用組合に加入するには、借金の担保のために一定の財産、つまり、貸付地や自作地が必要だった。それゆえ組織率が低く、50%を超えたのは地主制が揺らぐ昭和に入ってからだった。
 農協は本来的に自作農の組織なのである。農地改革が進まない発展途上国で農協がなかなか組織されないのは、ここに理由がある。

◆品川弥二郎と平田東助

 産業組合法の制定に執念を燃やした二人の政府高官がいた。松方内閣の内務大臣、というより「宮さん宮さん」で始まる官軍マーチの作詞で知られる品川弥二郎と法制局長官平田東助である。品川は長州の松下村塾で吉田松陰の感化を受けて育ち、維新の大業にかけた思いが裏切られていくのを感じていた。平田は賊軍とされた米沢藩出身で、「白河以北一山百文」と軽視されていた東北農村の救済に期するものがあった。
 2人はドイツ留学の経験を共にし、ライファイゼンによって設立された農村信用組合が村々にひろがり、大きな効果を挙げているのを目の当たりにしていた。それ以来「日本にも農村信用組合を」というのが二人の宿願となっていた。

◆ライファイゼン型信用組合がモデル

 当時のドイツは、イギリスに比べて産業革命と資本主義の発達が遅れ、農民や手工業者などの中間層が大量に存在していた。しかし彼らは資本との競争で没落に瀕しており、高利貸の餌食になる者が多かった。
 フリードリッヒ・ウイルヘルム・ライファイゼンは、公選の村長として地方行政に携わる役人であったが、行く先々で農民の悲惨な状況に胸を痛めていた。その頃、都市部ではシュルツェ・デーリチュが職人や小商人のための信用組合を組織して成功しつつあり、それに学んで高利貸に対抗する農村信用組合を立ち上げた。
 ドイツで最初の農村信用組合が設立されたのが1894年だから、わが国の報徳社よりも遅いが、国家による法制化は早く、1889年には「産業及び経済組合法」が成立していた。品川と平田はこの法律を参考にして信用組合法案をつくり、1891年の第2回帝国議会に提案したが、議会解散のため審議未了となった。

◆事業別専門組合方式だった産組法

 それでも実際の信用組合設立は各地で進み、静岡県では報徳社の有力指導者の協力の下に掛川信用組合、浜松信用組合などが、平田の出身地山形県でも小松信用組合、糠野目信用組合などが任意組合として設立された。こうした下からの動きに励まされた政府は、信用組合法案を産業組合法案と改称して1897の第10回帝国議会に提案した。
 この時の提案者は農商務大臣榎本武揚であったが、彼は「現在多クノ銀行ハ概ネ商業社会ニ金融ノ便ヲ与エルニ過キス、彼ノ農業、工業、漁業に従事スル細民ノ助ケニハナラス」と提案理由を説明し、「細民」「中産以下の人々」のための法律であることを強調している。
 この法案もなかなか議会の了承を得られず、またしても審議未了となった。しかし品川らの決意は固く、3年後の1900年に若干の修正を加えた第二次産業組合法案が提出され、ようやく可決施行に至った。
 議会の抵抗が意外に強かったのには様々な理由があるが、貴族院議員末松謙澄の「社会主義的組織ヲ日本ニ現出スル目的にアラスヤ」という反対演説は有名である。愚論だが、組合組織というものへの支配階級の警戒心を示す原型として記録しておく価値がある。

◆地主や商人の参加も可能

 産業組合法が戦後の農協法と大きく異なっている点を挙げておこう。まず産業組合とは単一の組合ではなく、信用組合、販売組合、購買組合、生産組合の4種のうちの一つ、または複数の組合となっていることである。総合方式でなく、ドイツ流の専門方式を取り入れていることに注意しておきたい。
 第二に、組合員資格の限定がなく、産業組合の組織対象は農業者だけでなく、都市の商工業者をも含む広範なものであった。したがって都市部における消費組合(購買組合)の設立も可能であった半面、農村産業組合については地主や商人も加盟することができ、その社会的性格をあいまいなものにした。
 第三に、地方長官(国家)に設立許可権だけでなく営業停止や解散命令をも含む強大な権限を与えており、ヨーロッパの自由と民主主義の協同組合理念からはかなり遠いものだった。第二と第三は、あるいは末松議員的な懸念に対する配慮だったかもしれない。

◆国内の実践を取り入れた立法

 しかしここで注目したいのは、最初に挙げた産業組合が4種類の組合からなっている点である。ドイツの「産業及び経済組合法」は事実上信用組合についての法制であり、それを参考にした最初の法案も信用組合法であった。
 しかし成立した産業組合法では、組合は信用組合のほかに販売組合、購買組合、生産組合の設立を期するとしており、これらはいずれも明治以降にわが国の社会の中に自生したものであることは前回に述べた。生産組合とは生産施設を共同利用することだから、製茶や製糸の加工組合とほぼ同義と考えてよい。 つまり、産業組合法はドイツからの直輸入ではなく、そこに国内の人々の間に自然に発生していた協同の実践を取り込み、組み込んでいる。産業組合法は、ふつう考えられているように国家官僚がドイツの法律を翻訳してつくったというものではなく、日本の歴史と現実をふまえ、その意味で国民の実践に根ざして成立しているのである。

◆明治・大正期の不振とその理由

 しかしそれにもかかわらず、発足当初の産業組合はあまり発展したとはいえない。政府の奨励にもかかわらず、産業組合が設置された町村はまだ少数にとどまっていたし、設置された組合も村内の農業者の一部を組織していたにすぎなかった。産業組合の組織率が50%を超えるのは昭和に入ってからで、明治期ではその末年に至っても20%未満、大正末年でもようやく40%だった。
 また実際に組織された組合のほとんどが信用組合で、販売、購買、生産組合はまだ少数であった。これは産業組合設置のリーダーシップを取ったのが農村の中小地主であり、彼らの利害の中心は信用事業にあって、共同販売や共同購入にはあまり関心がなかったためと考えられる。また信用組合に加入するためには一定の財産が必要であり、地主制が発展し小作農が増加する中では、組織対象者そのものが減少していたからである。
 このことは現代においても、発展途上国の多くで国連等の推奨にもかかわらず協同組合の組織がはかばかしく進まないのはなぜかという問題への答を示唆している。
 農村協同組合は本来的に自作農の組織なのであり、その本格的な発展のためには農地制度の改革が前提となる。わが国の産業組合が、ようやくその存在感を発揮するのは、地主制が動揺する昭和恐慌期を待たなければならない。

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