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シリーズ:農協のかたち

【太田原高昭 / 北海道大学名誉教授】

2013.09.30 
専門農協か、総合農協か一覧へ

・農地改革と戦後自作農体制
・農協のかたちをめぐる攻防
・差し迫る飢餓とのたたかい
・「看板塗り替え」との批判
・残された火だね 専門農協と准組合員制度

 いよいよ戦後編に入る。
 農協は、GHQの農民解放令によって、戦後自作農体制の核心に位置づけられた。
 当初は、農協のあり方、かたちについて、農林省の考えとGHQの考えの間に大きな隔たりがあった。農林省は総合農協を主張し、GHQは専門農協を主張して、互いに譲らなかった。
 農林省は、8次案まで作って粘り続け、とうとうGHQに総合農協を認めさせた。この過程で、GHQが日本の農業の実情を理解した、とも言えるだろう。 そこには、もう1つの事情があった。
 それは、食糧危機である。1千万人餓死説が出るほどの大きな社会問題だった。このため、食糧供出の実務を担当する組織が、引き続き必要だった。それを農業会に代わって、農協が担うことになった。供出の割り当て量を集められなかった農協理事が、責任をとって自殺するという悲劇が起きたりもした。

◆農地改革と戦後自作農体制

 敗戦によって大日本帝国という国家は崩壊し、政治、経済、社会のあらゆる面で平和で民主的な国家を築くための戦後改革が進められた。農地改革は、財閥解体と並んで経済改革の2つの柱であり、半封建的といわれた農村社会の根本的な改革でもあった。
 農地改革によって誕生した自作農は、封建時代いらいの零細で分散した耕地基盤をそのまま引き継いだ脆弱なものであったが、農地改革についての連合軍最高司令官覚書、いわゆる農民解放令には、この脆弱な自作農をふたたび小作に転落させないために次のような保護政策をとることが指示されていた。
 「[1]合理的な利率で長期または短期の農業金融を利用しうること、[2]加工業者および配給業者(商業者)による搾取から農民を保護するための手段、[3]農産物の価格を安定する手段、[4]農民に対する技術その他の知識を普及するための計画、[5]非農民的勢力の支配を脱し、日本農民の経済的文化的向上に資する農業協同組合運動を助長し奨励する計画。」
 これらが農業金融制度、農産物価格制度、農業改良普及制度および農業協同組合制度として体系的な農業保護政策となり、その総体を戦後自作農体制という。農協制度はこの戦後自作農体制の核心に位置づけられていたのである。

◆農協のかたちをめぐる攻防

 農林省は農民解放令を受けて、直ちに農業協同組合法の立案を開始したが、農林省とGHQ天然資源局との間には農協のあり方、かたちについての考え方に大きな隔たりがあった。GHQの担当者の念頭にある農協とは欧米流の専門農協であり、日本型の総合的な多目的組合については全く知るところがなかったようだ。 すでに触れたように、欧米の先進国では独立自営農民の長い歴史があり、市場経済に対応して地域的、経営的にかなりの分化を遂げていた。農協もそれに対応する事業別、作目別の専門農協として発達していたのである。農林省側は欧米と日本の農業形態の違いを説明するのに大汗をかかなければならなかった。小倉武一編『農協法の制定過程』によれば農林省の主張はおおよそ次のようなものであった。
 「日本の農民の農業経営の実態は耕種、畜産、養蚕などの複合的経営であり、業種別に専業化しているものはきわめて少ない。従って設立さるべき組合はこのような農業経営の実態に即応するものでなければならない。」「直接耕種農業生産に関する事業及び金融・流通・加工事業等はなるべく兼営し、組合経営の効率化を図ることが必要である。」
 両者の攻防は1946年の3月から1947年の7月まで続き、農林省がGHQに提出した法案は8次案にまで及んだ。農協法の制定までは2年かかっているから、ある意味では農協法は農地改革以上に難しかったといえる。

◆差し迫る飢餓とのたたかい

 GHQは結局日本側の主張を認め、総合農協というかたちに同意する。それは日本農業の現実や農業団体の歴史的経過についての理解が進んだからであるが、それよりも差し迫ったきわめて現実的な事情がこの判断を促したとみられる。
 それは戦後日本を襲った食糧危機である。もともと朝鮮や台湾の米をあてにしていた内地の食糧需給は、敗戦と外地からの引き揚げによってたちまち破綻した。国民の多くが飢餓地獄に追い詰められ、このままでは1千万人が餓死するだろうと言われた。
 こうした事態を乗り切るためには、まず供出と配給の統制経済を継続することが必要であった。そして統制経済の農業部門の実務を担当していたのが他ならぬ農業会であったから、その機能を何らかのかたちで維持することが切実に求められた。
 国家の統制機関である農業会を速やかに解散し、徹底した教育によって自由で民主的な協同組合意識を高めた農民が、自主的に農協を組織するというのがGHQのシナリオであったが、戦後日本の現実はそうした時間的余裕を与えなかったのである。

◆「看板塗り替え」との批判

 こうして1947年11月の農協法公布からわずか3ヶ月後の1948年2月までに全体の9割に当たる1万5154の出資組合(総合農協)が新たに設立された。農業会の解散を決議した同じ総会で農協設立を決議し、農業会の建物、財産、従業員をほとんどそのまま受け取って事業を継続するというのがその実態であった。
 こうした農協の設立について朝日新聞の社説は「新しい農業協同組合も現農業会の看板塗り替えに終わる危険性はないだろうか」と書いた。この「農業会の看板塗り替え」という表現はこの後ずっと農協批判の常套句となっていく。
 農協法そのものは、ICAの国際協同組合原則にきわめて忠実であり、農民の、農民による、農民のための民主的協同組合であることを宣言している。しかしこの新しい酒を盛る革袋は古いままであった。絶対権力を握るGHQも飢餓には勝てなかったのである。
 食糧危機はその後も続き、新生農協は供出と配給の実務に追われた。都会では配給米しか食べなかった法律家の餓死が話題になったが、農村でも供出の割り当て量を集められなかった農協理事が責任をとって自殺する悲劇が起きていた。統制経済の継続は国民の生存のために必要だったのであり、生産農民の犠牲のうえに成立していたと言ってよい。

◆残された火だね 専門農協と准組合員制度

 農協法の制定過程では、当然ながら日本側の意見がすべて通ったわけではない。連合会については農業会に準じて一本化をねらった農林省案は退けられ、事業別連合会の並立となった。GHQの専門農協主義が連合会には生かされたのである。
 また専門か総合かの議論は農業会の後をどうするかの議論であって、農業会に統合されなかった専門組合はそのまま専門農協として存続した。専門農協のルーツは特定作目の同業組合や旧農会の販売あっせん事業など多様だが、出資、非出資を含めて総合農協数を上回る専門農協が認可された。これが次第に力をつけ、後に新たな組織問題が発生する。
 また新生農協は組合員資格を耕作農民に限定したが、産組、農業会の会員だった非農業者の貯金等の継続のために准組合員制度が設けられた。これも後に大きな火だねとなる。

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