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JAの活動:女性協70周年記念 花ひらく暮らしと地域

【JA女性協70周年記念 花ひらく暮らしと地域――JA女性 四分の三世紀(1)】貧しさからの解放<上>「銃後の農村」に生きて 文芸アナリスト・大金義昭2021年6月1日

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「国破れて山河あり」と言われた飢餓の夏から、コロナ禍を乗り越えて新しい時代に挑む今夏まで75年。地べたにはいつくばり、悲しみに耐えて生きた女性たちが、いまは風を切ってマイカーを飛ばし、仲間たちとの絆を広げている。その足どりを、「農といのちと暮らしと協同」の視点から、文芸アナリストの大金義昭氏にたどってもらった。

■農民兵士の願い

取材で訪れた農家の鴨居に、軍帽・軍服姿の遺影を見かけることがよくあった。額縁の中の青年が、りりしい容姿で人気のない部屋に差し込む淡い外光を見下ろしている。明らかに修正の施された写真も見られた。

筆者の父も農家に生まれ、昭和15(1940)年1月に20歳で中国東北部の戦場に一兵卒として駆り出された。幸いに遺影にはならなかったが、口数が少ない父だった。幼い頃、父がこぐ自転車の荷台に乗せられ、背につかまって野辺を走った時などは、風に乗って鼻歌交じりの軍歌が聞こえてきたことがあった。

兵隊(兵役)検査に合格した男たちは、漏れなく侵略戦争の道具にされた。昭和18(1943)年1月に東部ニューギニヤで戦死した農民兵士が戦地に立つ前、国内で外出を許された際に検閲を逃れて妻に送った手紙がある。

 僕は子供の事を一番考えて仕方がない。貴女の手紙を見て何だか涙が出て仕方なく、一人で泣けて来る。けれども仕方ない。
 貴女の事については決して心配はしない。心情がわかって居る。貴女の心の底がわかって居るからね。
 身体を大切にしてまってくれ。若し身体が具合が悪かったら、すぐ手当てをしてくれよ。身体が一番だからね。あまり心配や骨を折らずに妻子供共に元気でいてくれ。子供も病気だったら、すぐ医者につれて行ってくれよ。くれぐれも頼む。両親はどうだね。
 母の病気はどうかね。変った事があったらすぐ知らせよ。小生もすぐ知らす。走り書にて

(高知県。年齢不詳。森下清香)

昭和19(1944)年2月に、戦場から父親に宛てた若者の手紙もある。およそ一年後に、若者はフィリッピン・マニラ東南マロス飛行場で戦死している。24歳だった。

 拝復 お手紙有難とうございました。二月になり内地も幾等か厳寒もゆるんだ事と思います。皆んな丈夫で喜んで居ります。正はいつも元気です。牛小屋を建てるらしいですが、モウ公も喜んでいると思います。藁ぶき小屋はとりのけてリンゴを植えるのは非常に良いと思います。
 桃の木もなるたけ老木は切って、整然とリンゴだけにしたら理想と思います。桜の木は駄目ですね。西の方は明るくなり隣の家迄見透しですね。牛の腹は大きいですね。あれは産近くなると癖が悪いですから用心願います。また後で。 敬具

(岩手県。飯盛 正)

いずれも、岩手県農村文化懇談会が編んだ『戦没農民兵士の手紙』(岩波新書)に収録されている。埋もれていた書簡類を、遺族の理解や協力を得て集成したものだ。昭和36(1961)年7月の発刊だから、敗戦後16年を経ていたが、夫や息子を奪われた心の傷は深い。

同年3月には農協合併助成法が、6月には農業の「近代化」を標榜する農業基本法が公布された。敗戦の混乱から脱出して高度経済成長期に突入し、戦時下の体験をふり返る暮らしのゆとりが生まれ始めていた時代とも言える。

第二次世界大戦の犠牲者は、世界で6000万~8500万人に達した。この国でも300万人を上回った。人類史に残る戦禍が、戦後に生きる人びとにどのような教訓を与えたか。ひとつには日本国憲法も、そうした人びとの血涙の結晶である。

■「戦争未亡人」の嘆き

「銃後の農村」を守った女性の肉声も残されている。

菊池敬一と大牟羅良が「聞き書き」を基に『あの人は帰ってこなかった』(岩波新書)を上梓したのは、昭和39(1964)年7月だった。3カ月後には東海道新幹線が開業し、「東京オリンピック」が開催された。出稼ぎ農民が数多く加わった道路や新幹線などの建設工事が進む中で、世間はオリンピック一色に染められていた。

昭和13(1938)年3月に、37歳だった夫が中国山西省で戦病死している。その妻が「誰、好きで戦争未亡人になったって。それでァお前ェその身になってみろ」「このことは、戦争さぶち当った人でねェばわからねェんだ」と語っている。

 明日(あした)たっていくという晩、あの人、博(長男)と節子(長女)を膝の上さ乗せて寝床の上で泣いてばかりいたっけナ。(中略)
 あの時、博は四年生で節子は二年生だったナ。頭なでながら博さ、「勉強せよな、勉強して偉くなれよな。小さい子供だの弱い子供を、かもったり(いじめたり)するなよな」
 っていって聞かせながら、一晩中泣いていたっけナ。自分は帰って来れねェ、とでも思ったんだべか。それともあんまり泣いて征ったんで死んだんだべか。

(岩手県。57歳。小原こめ)

28歳の夫が昭和20(1945)年3月にレイテ島カンボギットで戦死。戦後を必死に生きてきた妻に次のような言葉がある。

 今まで、まるっきり男だか、おなごだかわからないくらいきかなく(強気に)なって来たったども、この苦労とうさんどこかで見ててくれたら、ほめてくれるだろなァ、と思ってナス。
世間の年寄り達、「戦死者の妻というもの、ただの後家と違って、ひとに後指さされないようにするの夫へのつとめなんだ」っていうども、今オレ、その人達さ、
 「この通りやったマス」
 って、大声でいってやりたいような気がするナス。口では他人ごとであれば簡単にいうべども、容易なことでねェ。容易なことでねェ。他人様には、容易で立派なこというもんでねェ、とつくづく思うナス。(中略)
 立派だ、名誉だなどといわれて、そのために死ぬような苦労すること、オレ達みたいなやつらで終りにした方いいナッス。

(岩手県。43歳。伊藤俊江)

JA女性の歩みをふり返る時、「銃後の農村」を守った女性の体験から始めないわけにはいかない。なぜなら、彼女たちの胸の内の慟哭(どうこく)が、戦後に花ひらく活動の原動力になっているからだ。

筑波山を遥かに望む早苗田を、いま風が渡っている。

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