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JAの活動:女性に見放されたJAに未来はない JA全国女性大会

大金義昭:歴史に学ぶ 神野ヒサコの半生から 女性が支えた農協運動(1)2020年1月24日

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女性組織不世出の活動家夫と息子の死を越えて「農村婦人」の解放めざす
文芸アナリスト大金義昭

 参政権が認められ、女性の社会進出が進んだ戦後。農村でも民主的な農協づくりとともに、封建遺制からの女性解放を唱え、時代を駆け抜けた女性がいた。全国農協婦人部会長として、今日のJA女性部活動の礎(いしずえ)を築いた神野ヒサコさんだ。その半生を文芸アナリストの大金義昭氏が綴る。 

1955年に開かれた第1回全婦協大会1955年に開かれた第1回全婦協大会

◆給料袋ごと義母に渡す

 JA全国女性協の揺籃期を、全身全霊で駆け抜けた一人の女性がいた。

 昭和20(1945)年代の後半から30(1955)年代を中心に、全国農協婦人団体連絡協議会(全婦連)や全国農協婦人組織協議会(全農婦協)と称した時代に活躍した神野ヒサコさんである。

 神野さんは明治30(1897)年に、愛媛県周桑郡楠河(くすかわ)村(現在の西条市)に生まれた。道前平野の北西の端、東は瀬戸内海の燧灘(ひびきなだ)に面した漁村で、食料品や雑貨を商う生家は網元の仕事もしていた。「子供のころは無口で目立たない性分」であったという。

 後に県立女子師範学校を卒業し、昭和8(1933)年まで15年間、小学校の教員を務めた。この間に同職の男性に見初められ、求められて石鎚山の麓にある古い城下町・小松の神野家に馬車に揺られて嫁いだ。教員在職中の給料は、夫と共に封を切らずに姑にさし出した。だから小遣いがなく、ときどき実家の母親にもらいに行った。財布を渡されたのは、姑が寝込んでからである。よそから思われがちな、開(ひら)けた教員の家とは程遠く、旧慣に従う当時の農家と変わらない嫁姑の関係にあった。

 60アールほどの畑を耕す姑は口数が少なかったが、離婚して実家に戻っていた義姉が口八丁、手八丁で、世間によくある苦労をした。3人の男子に恵まれ、長男が中学に入学する1年前の年に教員をやめた。恩給がつくようになったからである。願っていた子育てや家事に専念し、姑の畑仕事も手伝えるようになった。

 夫が小学校の校長になると、「校下居住」の規則により学区内の官舎に転居した。ちょうどそのころ、姑が中風で倒れた。半身不随で寝たきりになった姑を引き取り、官舎で2年近く看取った。日中戦争のさなかのことである。

 教職一筋に生きていた夫が、請われて断り切れずに小松の町長になったのは、太平洋戦争が始まった年である。戦時中の町長職は出征兵士の別れに立ち会い、白木の箱になって帰郷した兵士を出迎える仕事が中心となった。

 やがて敗戦を迎え、夫は公職追放になった。役目とはいえ、「御国の盾」となるように説き、多くの同胞を戦場に送り出した悔恨から、心の切り替えに難渋した夫は病床に伏した。出征した二人の息子のうち、生死不明であった次男の戦死の公報が届いた。夫の衝撃は大きかった。神野さんは次男に次いで58歳の夫を失い、二年続きの葬式をした。

 共稼ぎで手に入れた2haの水田は、不在地主として「農地解放」で手放している。わずかばかりの貯金を封鎖され、恩給も「主人の煙草銭」くらいにしかならない。神野さんは東京遊学中の三男への仕送りに事欠いた。寝込んでいる夫を看病しながら出来る仕事にと、生命保険会社の代理店を引き受けた。初めは反対していた夫も、保険の渉外に「今日はどうだった」と尋ねてくれるようになった。その収入で二人の葬式費用を賄った。

◆不振農協の再建に挑む

 神野さんは、夫が病床に就く前から町の民生委員や地域婦人会の世話役を引き受けていた。病状が進行し、余命を悟った夫が励ますように残してくれた言葉がある。「自分にはもう何も出来ないが、健康が続く限り私の分と二人分、社会のために奉仕してくれ」と夫は告げた。その言葉を神野さんは「遺言」と受け止め、生命保険の仕事をやめた。「残りの人生を婦人運動に奉仕」しようと決意する。

 自分と夫と次男の恩給とで「細々ながら女ひとりの暮らしはしていける。そして、このお金は日本の社会から与えられたもの」なのだと思い、「ふつつかであっても、あるかぎりの能力を吐き出し、社会のお役に」立とうと決心した。

 夫が亡くなって間もなく、神野さんは担がれて町会議員になり、郡の婦人会長も引き受けた。農協婦人部の立ち上げにも力を注ぐ。

 そんな自分を支えてくれていたような出来事に、神野さんは20年後の昭和40(1965)年代半ばに遭遇する。台風で停電した自宅でのことである。ローソクを探そうと仏壇の小引き出しを引っ張った手元が狂い、引き出しの中身を畳の上に散乱させた。灯をともし、それらをかき集めると、古くなって黄ばんだ封書が目に留まった。包みを開き、神野さんは声をあげた。「遺書」と書かれた文字があった。

 「戦死の公報入りたる時は開封せられたし」と但し書きがある。次男の「遺書」であった。「お母さんの苦労は、誰よりも自分がよく知っている。お母さんの強さを信じ、自分はいつも見守っている」とあった。からだの震えが止まらなかった。何度も何度も読み返し、涙があふれた。小引き出しの敷き紙の下にしまわれていたのである。その遺書を、神野さんはときどき取り出しては読み続けることになる。

 戦後不況に見舞われた農協の再建と農協婦人部(JA女性組織の前身)の設立に、神野さんは心血を注いでいる。「どこそこの農協が戸をたてたとうわさが流れると、たちまち近隣の村に波及」した。「つぶれるとなると、農協の理事が、購買事業のナベやカマまで風呂敷に包んで持ち帰った」とかいう話題が広がった。「農協の倉庫には、品質においても、流行からみても、役にたたない不良品が山と積まれ」「組合長も、昼間は表を歩けない」という噂(うわさ)話が交わされた。

 そんな不振農協を、神野さんは農協婦人部の力で再建しようと県内を奔走する。「農協がないために、どんなに高い物を商人から買わされているか。できることなら、農協がもう一度看板を出して欲しい」という声を集め、再建大会を開いて青年部と婦人部とが農協を立ち直らせた事例も生まれた。

 「ともかく、醤油や砂糖やせっけんなど自分たちの生活に必要な物を、店舗にはなにも並んでいなくても、農協へ予約を集めて持ってゆき」共同購入してもらう。貯蓄増強にも「あり金みんな持って行け」という気合いで取り組んだ。しかし、貯金はなかなか集まらない。婦人部員が率先して貯金を始め、気運を高めて再建に功を奏すると、他の農協にも活動が飛び火した。

 こうした旺盛な活動が、在来の地域婦人会と後発の農協婦人部の「二足の草鞋」を履くメンバーの中で軋轢を生んだ。当時の地域婦人会が、地域の「有閑夫人」のサロンに化していたこともある。骨身を粉にして働く「農村婦人」の地位向上には、馴染みの薄い集まりになっていた。このために「二枚看板」を脱却し、地域婦人会と一線を画す農協婦人部の組織的な「純化」(差別化)がしきりに論じられるようになった。

 この間には順次、都道府県に農協婦人部の協議会や連盟が誕生した。神野さんが愛媛県の協議会長に就任したのは昭和28(1953)年。同年には全婦連副会長に推され、翌年からは2年間、同会長を務めた。かくして昭和30(1955)年には全婦連が「農協婦人部5原則」を決定し、第一回全国農協婦人大会を開催した。今年はその65回目に当たる。

軍隊時代の長男と ちなみに神野さん自身は、全国の会長に選ばれた年に県の連合地域婦人会の副会長を辞任し、その後、順を追って郡や町の地域婦人会長をやめ、同志と共に農協婦人部の純化に取り組んでいる。このため、「社会教育畑の神野さんが会員をさらって農協へ嫁入りした」「なぜ地域婦人会を分裂させるのだ」「農協さんの御用聞きをして、だいぶ貰ってるんじゃないか」と批判され、吊るし上げに遭った。

 しかし、どんな辛い時にも、自宅に戻って夫の遺影を仰ぎ、「桃栗三年、柿八年じゃわい」と自分に言い聞かせた。「因縁の熟するところ遅速あり」と、組織人の粘り強さや根気の大切さを噛みしめた。

 神野さんは、農協運動を拠り所にした「農村婦人の解放」に身体を張った。石けんやマッチ、チリ紙、脱脂綿、手袋、砂糖など日常必需品のクミアイマーク愛用を唱える共同購入運動は、不振農協の再建を図る一環でもあったし、「貧しさからの解放」を求める生活改善運動の一環でもあった。貯蓄や共済の推進も生活文化の向上も同様である。

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「農協婦人部5原則」の徹底のために「県内のすみずみを回った私の武器は、洗濯講習と布団の綿入れでした。電気洗濯機なんていうもののない時代で、タライと洗濯板で、クミアイマークの棒状のせっけんを使って、いかに少しの分量で、早く洗濯するか実習するのです。初めに二時間ばかり五原則と農協完全利用の話をして、洗濯実習の毎日ですから、手がいつもふやけておりました」とふり返る。「ほんとうに、ひとり身だから、泊まりがけで家を留守にできた」とも語った。

 神野さんは「自分が耕作農民でない」ことに引け目を感じていた。推されて会長を務めているが、「自分は農協婦人部の役員として本当にふさわしいのか」と自問自答した。そのために、行く先々で「田の水番をして行くように勉強」した。「身を切るような冬の寒いとき、水田で畳にするイグサをつくる辛い思い、それを刈って夏の暑い河原の焼石にならべる体験」もした。「目もくらむ暑い河原で何時間も姉さんかぶりで、婦人部の同志と膝をまじえて」語り合った。農家の女性が未だに「乳役無角牛」と言われていたころのことである。

 全国の会長を2年で降りた神野さんは、足掛け3年にわたり「お遍路さんのように」県内各地を行脚する。「農協と一体となった婦人部の組織固め」と自分の「弱点」を補うためである。地元で出来ないことを、全国でやれなんて大きなことは言えない。常に自分が「ふさわしいか、ふさわしくないかの試験を受ける謙虚な気持ちで、この運動に仕えた」と神野さんは打ち明けている。

 自戒の意味を込め、内輪の「役員10か条」をみずからに課し、「組織人になり切る、組織の目的と性格をはっきり理解する、私利私欲を持たない、組織人としての厳しさ、人間としてのやさしさ」などを書きつけ、自宅に帰ると反復した。



歴史に学ぶ 神野ヒサコの半生から 女性が支えた農協運動(2)に続く

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