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コラム:小説 決断の時―歴史に学ぶ―

【童門冬二(歴史作家)】

2018.02.12 
民の信頼回復のために藩札を焼く 山田方谷一覧へ

◆農民家老の改革方針

 幕末にユニークな家老が出現した。備中松山(岡山県高梁市)藩の板倉家に出現した山田方谷(やまだ・ほうこく)だ。方谷の家は農家で灯油の製造を行っていた。しかしこの家に生まれた方谷(通称は安五郎)は、子供の時から近辺で〝神童〟と言われていた。大人顔負けの学問好きで、特に漢学に通じていた。藩主の板倉勝靜(かつきよ)は、桑名藩主松平家から養子に来た人物だったが、家柄からすぐ老中に招かれた。
 老中は江戸城勤務だ。故郷の藩にはなかなか帰れない。そのために、自分に代わって藩政の面倒を見てくれる人物が必要になる。その時に勝靜は藩内で噂の高い方谷を武士に格上げし、さらに自分の代理として松山城に腰を下ろすことを命じたのである。方谷ははじめは辞退したが、勝靜の熱心さに胸を打たれて承知した。
 民間にいた時から方谷は藩政に疑いを持っていた。漢学に造詣の深いかれは、特に古代中国の財政制度に興味を持ち、さらに貨幣問題を研究した。かれは、
「貨幣は、発行者に対する信頼度がなければ滑らかな通用はしない」
 と思っていた。かれが松山藩政に疑問を抱いたのは、
「藩札に対する藩民の信用度がどれだけあるか」
 ということである。藩札というのは、藩が発行する貨幣で、通用範囲は藩内に限る。そして正札(幕府が発行する貨幣)と交換できなければならない。だから言い方を変えれば、
「藩札の発行額は、藩が所有している正札の額以内に限る」
 ということになる。しかしこの単純な原則を無視して、窮乏した財政を切り抜けるために各藩(大名家)は藩札を乱発した。藩が持っている正札の何倍もの発行を行った。勢い、藩札を持っている藩民は次第に信用を持たなくなる。
民の信頼回復のために藩札を焼く・山田方谷(挿絵)大和坂 和可 藩政の担当を引き受けた方谷は、
「藩政を滑らかに行うためには、藩民の信用を得なければならない。その藩民が藩庁を信用していない。それは、正札と換えられない藩札を押し付けられているからだ」
 と断定した。ここで、かれの決断がはじまる。それは、
・思い切って、藩札を正札と交換する
・ もちろん、藩所有の正札は少ない。しかし他の手を講じて、藩札を正札に換えるような道を開く
・他の手というのは、藩の産業振興を図り、換価できる製品の製造を奨励することだ
・その事業も、当面は藩が自ら乗り出して直営とする
と思い立った。早速城内にそのための役所を作った。「撫育(ぶいく)局」と名づけた。撫育というのは、
「子供を可愛がり、愛情を持って育てる」
 という意味である。まず産品として重視したのが鉄である。近くの山々には、鉄が豊富に埋蔵されていた。これを掘り出し、高梁川の畔に工場をつくって、鉄器・稲こぎ機・釘・農具などを製造させた。これを販売する。さらに、大量に生産された鉄製品は、高梁川を下って瀬戸内海に出、玉島港から船に積み替えて、直接江戸に送りつけた。
大決断で民の信頼と得る
 鉄の他にも、松山の特産物であるタバコ・紙・柚餅子などもどんどん生産させた。そして、これも江戸を目指して輸出した。藩直営とはいいながら、それは販売面の方が主で生産は農民が行う。ただ、農民に支払う賃金は当面藩札にした。これはどこの藩もやっていることで、
「製品は生産者には藩札を渡して製品を買い、市場での販売は正札で行う」
 というのが普通のやり方だった。だから、結果的には藩に正貨がどんどん集まることになる。ある程度正貨が集まると、方谷は部下に、
「藩民に告げてくれ。藩札を正札に換えたいと思う者はどんどん城に来るように、とな」
 部下たちはびっくりした。方谷のやり方で正札がどんどん城に集まってきているのでみんな大喜びをしていた。
「これなら、傾いた藩財政も間もなく再建できる」
 と思ったからである。が、方谷は違った。藩札を正札に換えるから、どんどん城にやって来いと告げろという。
「そんなことをしたら、せっかく集まった正札もたちまちなくなってしまう」
 と、部下たちは顔を見合わせてブーブー文句を言った。しかし方谷は聴かなかった。方谷の考えは、
「正札と交換できない藩札を乱発しているから、藩庁が信頼を失っているのだ。藩庁の信頼回復は、まず藩札を正札に換えることからはじまる」と信じて疑わない。そのために撫育局をつくって、藩内の産業振興を行って来たのだ。触れが行き届いて、松山城にはどんどん藩民が押しかけて来た。手に手に藩札を持っている。方谷は交換所に立ち会って厳重に役人のやり方を監視していた。その視線を恐れて、役人たちも正直に藩札を受け取り正札を渡した。藩が買い入れた藩札は膨大な額になった。
 これを見て方谷は次の決断をした。それは、「藩民が信用しなかった藩札を全て焼き払う」ということである。このことも布告された。日時と場所が告げられた。場所は高梁川の対岸だ。藩民は我も我もと見物に出掛けて来た。噂を聞いて他藩の人間もやって来た。大勢の見物人を前にして、方谷は山と積まれた藩札に火を点けた。藩札はたちまち燃え上がった。見物人たちはみんなほうと声を放って半分は呆れ、半分は感動していた。そして、この思い切った決断をした山田方谷 に、賞賛の拍手を送った。中には御用商人も沢山いた。他国の商人もいた。商人たちは互いに顔を見合わせ、
(山田御家老は偉い。こういう人物になら、融資も惜しまない)と頷き合った。この藩札焼き払いによって、方谷は商人たちの信用を得、商人たちは競って、
「新しい藩札の発行をなさいませ。裏付けはわれわれが致します」と告げた。方谷ははじめて胸をなで下ろし、ニッコリした。方谷の本当の目的は、ここにあったからである。古い藩札を焼き払ったのは、過去との決別だ。そしてもし藩民の信用が得られるのなら、今度はその信頼に応えられるような新藩札を出したいと方谷は考えていた。藩札なしでは、藩財政は成り立たないからである。思い切った焼き払いに感動した商人たちが、みんな新しい藩札の発行の出資者になってくれた。学者方谷の、やはり常人ではない発想による大決断であった。しかしそれはかれが学んだ古代中国の、
「何よりも民の信頼を得る政治のあり方」を、かれがとことん学び抜いていたからである。

(挿絵)大和坂 和可

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