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【童門冬二・小説 決断の時―歴史に学ぶ―】江戸の経営コンサルタント 海保青陵2018年6月9日

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【童門冬二(歴史作家)】

◆忠義も労働契約だ

 海保青陵(かいほ・せいりょう)は、江戸時代の経営コンサルタントと言っていい。京都のある大名家の家老の家に生まれたが、相続せずに自由な発想と、自由な心を持って諸国を旅した。目的は、
「経営に行き詰まっている商家や農家を見つけては、知恵を与える」ということだ。かれは、
「この世に在る物はすべて代物(しろもの)だ」と唱えていた。つまりどんなものにも "経済的価値"があるので、もっと下賤ないい方をすれば「金に換え得る」という考えなのだ。極端な例としてかれは、
「武士社会における主従の忠誠心も代物だ」といった。部下が忠誠心を持つというのは、
「その証として労働力を提供する」というもので、主人はそれに対する謝礼として「給与」を与えるということだ。したがって、青陵はこの忠誠心について、ああだこうだと哲学的な考察をする事は全くない。単に代物として扱うだけだ。この考え方は、かれが桂川というオランダ学者の内弟子になり、そこの息子と本当に気が合って兄弟同様に暮らしたためである。この時にオランダ学から徹底的に「理を重んずる」ということを学んだ。したがってすべてかれの考えと行動は理詰めだった。いわゆる"情感 "は全くない。それだけに、考え方は今でもスカッとしたものとして受け止め得る。
 かれは死ぬ時のことも考えていてよく周りの者に、
「わたしが死んだら骨を砕いて宙に撒いてほしい。骨の粉は必ず天に向かうはずだ」と、"天"へ戻れることを信じていた。この辺はあるいはオランダ学から来た、キリスト教の影響があったのかも知れない。かれがコンサルタントとして相手に対し求めるのは、
「利益を独り占めするな」ということだった。
「自分は知恵を振い、得は相手に取らせることを念頭に置こう」と主張して歩いた。そして、そういうやり方を、
「各人の分業を集めて、一つの事業を成し遂げる」という共同作業を建前としていた。しかしただで知恵を振うのではない。
「知恵を振った者は、振っただけの知恵の代金を貰う」とはっきりしていた。そしてかれ自身がそれを実践した。つまり、
「わたしは知恵を売る人間だ。だから、知恵を売った代金は申し受けるが、その知恵によって得た利益は私の知恵を買った者の所有となる」と割り切っていた。

 

◆ブランドの中に身を投げよ

海保青陵(かいほ・せいりょう)=(挿絵)大和坂 和可 かれは全国を歩いたから、土地土地で生産される品物の類似性によく眼を着けた。たとえば、関東の秩父地方で生産される絹と、加賀(石川県)で生産される絹とは同質であり、共に京都での評判がよいという事実も掴む。が、売れ行きはどうも加賀絹の方が優っている。かれは考える。
(秩父と加賀の生産者が協同して同一のブランド品を売る)が、この時かれが考えるブランドというのは加賀絹のことであって、極端にいえば、
「秩父絹は加賀絹の中に発展的解消をしてしまえ」ということだ。両方が、
「こっちの方が優っている」と争い合っていたら、いつまで経っても埒はあかない。それを解消するために、
「秩父絹の生産者が、思い切って自己製品を加賀絹の中に投じて、京都で商え」ということなのである。このやり方を、あちこちでかれは唱えている。秩父絹も関東地方では、川越産の衣類に引けをとる。そうであれば、青陵は、
「秩父絹は思い切ってまず川越織の中に身を投じてしまえ。そして、秩父絹で通してきた誇りや伝統を忘れて、川越織の中に溶け込んでしまえ」ということなのである。相当思い切った乱暴な論法だが、かれは前に書いたように、
「理詰めで事を運ぶ」という考えだから、そういう"情感"に基づく価値観は、一切捨ててしまう。それがいいか悪いかは別問題だ。しかしこの手続きは、単に商人だけの問題では済まない。日本全国は、大名が支配しているから、大名も領内の生産品には多大の関心を持っている。したがって、大名家の了解が要る。その場合の政治工作についても青陵は自分の家が大名の家老だったから、いろいろな知恵を持っている。秩父絹と川越織との同一化についてもかれは、
「秩父絹の管理は忍(埼玉県行田市)藩の管轄だから、忍藩のこういう名の人物を訪ねて便宜を図ってもらえばよい」と名を挙げて訪ねるべき相手を推薦する。もちろんそれはかれの"知恵の一部"だから、当然代金は貰ったに違いない。この秩父絹と川越織の合同化によって、かれは、
「それを管理する忍藩と川越藩の仲もよくなり、協同の利益追求で二つの藩が兄弟のようになるはずだ」という。したがって、かれのこういう利益追求の底には、どうも徳川時代の地方制度に対する批判というか、改善案が据えられていたような気がする。その証拠にかれは、
「二つの大名家が手を組んで、それぞれの名産品を一つの名産品にすれば、必ず上州縮緬や、桐生絹や、館林辺りの織物生産者も、仲間に入れてやってほしいという気になって来る。これは、考えてみれば大きな国益です。つまり世の中のためになる仁であり徳だといえる」と告げている。だからかれが、
「秩父絹と加賀絹が手を携えればいい」といった一方の秩父絹(関東)においても、秩父絹を川越織の中に発展的解消させ、しかも関東地方の各名産品をも川越絹のブランド名の中に投入してしまえば、
「もうそれだけで加賀絹に対応できる関東の一大名産品ができる」という考えのようだ。
しかもかれは、
「そういう状況になった時は、川越の生産者たちがしゃかりきになって大量の生産を行う必要はなく、他から加入してくれる関東地方の生産者たちの生産量を、川越が圧倒する必要がなくなる」
 とも言っている。わたし自身は、こういう織物経済の内情については全くど素人なのでよくわからないが、青陵の辿り着こうとしている行き先には、どこか、
「当時の封建制度によっていろいろな規制を受けている織物一つについても、その規制を壊してのびのびとした生産体制に切り替えたい」というような意図を感ずる。

(挿絵)大和坂 和可

 

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童門冬二(歴史作家)のコラム【小説 決断の時―歴史に学ぶ―】

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