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【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第21回 都市と農村の戦後食糧難の認識(1)2018年9月27日

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【酒井惇一(東北大学名誉教授)】

 つい最近ある方からこんなことを聞かれた、戦後日本人は食糧難・飢餓を体験をしたが、農家の場合どのような飢餓体験をしたのか、話を聞いたことがないかと。

 問われて初めて気が付いた、聞いた記憶が私にはないのである。だから、申し訳なかったが答えられなかった。
 そこでふと疑問を感じた、何十年にもわたる研究生活の中であれだけ多くの農家の方からいろいろお話をうかがってきたのに、なぜ戦時中、敗戦直後の飢餓の体験を聞いたことがないのか、聞いたけれども馬齢を重ねた結果その記憶を失なってしまったせいなのかと。
 でも、大凶作のときの飢餓の話は何回か聞いた記憶が残っているのだから、私の記憶喪失症のせいではなさそうである。とすると、農家の方が戦中戦後の飢餓をとくに自覚しなかったので話題にもしなかったということになるのではなかろうか。
 それではなぜ農家の方は飢餓を認識しなかったのだろうか。

 私の世代以上で戦後大都市に住んでいた方からこういう話をよく聞いた。
「戦後、米の配給が少なくて雑炊、糧飯(かてめし)、おかゆにして食べるしかなかった。配給されたカボチャ、サツマイモ、トウモロコシの粉、豆腐からなどを、米の代用食として食べることもあった。通常は食べないさまざまな山野草等々、その辺で穫れるものも食べた、まずかった。それでも足りずいつもお腹が減っており、栄養失調状態で苦しんだものだった」。

 しかし、戦前の農家のかなりの方は、今述べたようなものを以前から日常的に食べていた。戦中戦後だけではなかった。とくに零細小作農家がそうだった。前にも書いたように、耕作面積が少ない上に生産量の半分も小作料として地主に取られ、残った米のうちのかなりの部分は肥料や衣料等々の生産・生活資材の購入のために売られるとなると、自分の家で食べられる米などは本当にわずかとなる。それで、雑炊、糧飯、おかゆ、すいとん等は常食、それでも足りなければ家で採れるイモやカボチャを主食として食べるというのが日常だった。つまりいつも飢えていたのである。

 米の穫れない山間冷涼畑作地帯の農家はヒエやアワなどの雑穀が主食であり、冷害の年などにはふだんは食べない山野草やドングリなどを工夫して食料とし、飢えをしのぐしかなかった。
 北海道の畑作地帯の農家の子どもは冬になると顔がみんな黄色くなったものだった、カボチャが冬の主食となるからだ。戦後10年を過ぎてもだった。
 戦後入植者も何とか穫れたイモや大根、少ない配給の米などで飢えをしのいだが、それはそれ以前の入植者も同じ、入植時はみんな飢えに苦しんだものだ。しかもあの引き揚げのときの、戦災にあった後の苦しみからみたらまだ我慢でき、だからとりたてて戦後の飢餓として言わなかったのではなかろうか。そして私はその苦労話を開拓にともなう飢餓の問題として聞いてしまったのではなかろうか。

 つまり、農家のかなりの部分は、都市住民が戦後に経験した食生活を戦前も日常的に送っていたのである。したがって、そうした食生活は戦後の飢えの体験、特殊な異常な体験として認識していない、語るだけの価値を自覚していない、だから語らなかったのではなかろうか。

 それからもう一つ、かつての農家は自給自足を基本としていたことも関係していると思われる。このことについては次回述べたい。

 

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酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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