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【坂本進一郎・ムラの角から】第11回 秩父事件と三里塚(下)2019年6月5日

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【坂本進一郎】

(3)虫けら扱いは拒否する

 三里塚の成田空港問題で目立つのは政府のゴリ押しだ。空港建設のスタートもゴリ押しであった。私は36年前故萩原進さんに若者を対象にした私の塾に来てもらって三里塚闘争について話してもらった。この時の萩原さんの話はメモに取っているが、三里塚の人がどういう気持ちで戦っているのか分かった。
 萩原さんは言う。
「農業構造改善の一環としてシルクコンビナートが空港問題が起きた1年前からスタートした。シルクコンビナートとは蚕を糸にして織物にする事業です。1年たっていよいよだなと思っていると、空港問題が起きました。シルクコンビナートは潰されると思っていなかったが、一週間のうちに駄目になりました。そこで県知事に談判に行きました。知事は『空港という国策なのでしょうがない。あなた方青年は別の道を歩んでもらいたい』この時虫けら扱いされていると思った。悔しかった。それなら百姓になりきってやろうじゃないか。空港を潰してやろうじゃないかと思った」
 あれから36年たった。国のゴリ押しは今もなお変わっていない。その理由は国内の民主主義が未成熟だからなのであろう。
 このゴリ押しは三里塚だけでなく、減反・青刈り等と全国でも見られた。しかし三里塚でのゴリ押しはひどい。それゆえ三里塚のゴリ押しは全国の頂点に立たされているようなものだ。この非民主主義的行為がゴリ押しの苦しみを知っている全国からシンパを集める原因かもしれないと思ってしまう。ところが政府はゴリ押しの醜態を隠すため空港は「公共性」があると横車を押している。一方で政府は隙あれば「土地収用」を虎視眈々と狙っている。つまり「公共性」で農地が収奪できないときは「土地収用」でと画策している。それは「公共性」と「土地収用」とで一本の縄を編むようなものである。

(4)軍律五ヶ条

 ここで軍隊の動向について見ていこう。
 蜂起の11月1日椋神社に3000人集結し、田代総理は彼らの前で「役割」表を発表した。ここでは紙面の関係から割愛した。軍律五ケ条を採録しよう。軍律は後述の毛沢東の「三大規律八項注意」に似ている。なお、原文はかたかなだがひらかなに直した。
第一条 私に金円を掠奪するものは斬
第二条 女色を犯す者は斬
第三条 酒宴をなしたる者は斬
第四条 私の遺恨を以って放火其他乱暴を為したる者は斬
弟五条 指揮官の命令に違背し私に事を為したる者は斬
(『秩父事件』より)

 この役割人事で目を引くのは、菊池貫平の参謀長就任である。蜂起に間に合うようにはせ参じたので秩父の地形にうとい。しかも、自分でなりたくて参謀長になったのであった。その彼は参謀長として軍律五ヶ条を起草している。のちに闘争本部が瓦解した時、菊池貫平は十石国峠を越えて信州佐久を転々と「長征」した。
 しかし日本のように狭い国土では長征は不可能だ。この点毛沢東は広い国土を利用した。彼は辺境の井岡山(せいこうざん)や延安に独立根拠地を作り半独立国なみに運営し『実践論』『矛盾諭』を書き表すなど天下統一の戦略を練った。毛沢東は軍隊が大衆の支持を得られるように三大規律、八項注意を作った。(以下三大規律)、1、行動は指揮に従う。2、取り上げた金銭は公のものとする。3、一般人民からいも一個とらない。(以下初期八項注意)1、話は穏やかにせよ。2、売り替えは公平にせよ。3、借りたものは返せ。4、こわしたものは弁償せよ。5、寝藁はかたずけよ。6、戸板はもとどうりにせよ。
 私は5歳の時満洲の新京から引き揚げてきたので、母から毛沢東の八路軍の話を聞いたことがある。新京での国共内戦に毛沢東の八路軍が勝利すると彼らはしばらく駐留した。その時ある兵士が我が家にミシンのあることに気が付いた。兵士は着古しのズボンを持ってきて、破れた個所の修理を頼んできたという。ズボンからはすえたにおいがしてきたが修理してやった。するとこれぐらいなので修理代は「不要」(ぷうやお)といったのに代金を強引に払っていったという。またある兵士が社宅前庭の空き地を耕しているのでその兵士に「なぜ耕しているのか」と聞くと「人民に負担をかけないことと次にやってくる仲間のためだ」という。毛沢東軍の兵士は規律を守ったようだ。蒋介石に勝ったのは規律を厳守したせいとも言われている。
 それだけではない。毛沢東軍は、地主を打倒すると農地を小作人に解放した。すると小作人の子弟は毛沢東軍に馳せ参じた。この光景は中国全土で起こった。このような解放軍は国民軍といえる。
 それなら我が菊池貫平軍はどうだったか。残念ながら解放軍(国民軍)になる前に消滅した。菊池軍も高利貸を打倒し高利貸しに苦しむ農民を解放してやれば国民軍になれただろうが、国土が小さかった。あるいは毛沢東のように軍隊は解放軍だという宣伝をすることまではいかなかったのかもしれない。

 ところで今回この文章を書いていて秩父事件と毛沢東の井岡山革命は似ていることに気が付いた。中央の自由党から相手にされず末端の負債農民を組織したのは秩父困民党であった。毛沢東も『湖南省農民運動の視察報告』(1927.3)にあるように農民(貧農)を主人公にした革命をやるべきだと主張したが、陳独秀の中央から受け入れられなかった。そこで辺境の井岡山で貧農による革命をやってみせる気持ちもあった。
 軍隊の中にはその国の置かれた歴史事情(人間関係)が投影されているようだ。3つの例を挙げてみよう。
 まずフランス革命軍。構成員は独立自営農民。祖国防衛は革命防衛であり自分の農地の防衛であり戦闘意欲は強かった。日本の戦前の軍隊に独立自営農民というのはいなかった。地主制のもとの上下関係が軍隊内にも持ち込まれた。
 中国人民解放軍。構成員は歴史の主体としての自覚を持った下層農民。これが中国民族としても中核的存在。だから自分たちの利益を守るということで戦闘意欲は強かった。秩父事件はフランス革命軍と中国人民解放軍を合わせたものか?
 最後に明治17年ころ全国の騒擾は年間60~70件あったという。秩父事件はその一つだ。それなら秩父をして秩父たらしめたのは何ゆえか。同じことは三里塚にも言える。三里塚たらしめたのは何ゆえか。あるいは両者ともにいまだに人々の話題に上るのはなぜか。その理由は困民党が末端農民の抵抗のエネルギーを引き出し組織化して問題を訴え、三里塚も秩父事件と同じように民主主義の足もとを照らしているからであろう。

 前回は下記リンクをご覧下さい。
【坂本進一郎・ムラの角から】第10回 秩父事件と三里塚(上)

 

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坂本進一郎【ムラの角から】

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