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国県営による開田【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第163回2021年9月16日

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岩手県中部、奥羽山脈東部にある湯田ダムは北上川の支流の一つである和賀川を湯田村(現・西和賀町)の東端でせき止めてつくられたものだが、その建設は北上川上流改修計画の一つとして戦前から検討されていたものであり、電源開発と農地開発が緊急の課題となっていた1953(昭28)年にその実施計画がつくられた。そしてそれは64(昭39)年にダムを完成させ、その後5年間でダムの下流にある2市2町(当時)の4300㌶の畑・原野を開田し、ダムの水を利用して稲を栽培するというものだった。

昔の農村今の世の中サムネイル・本文

1963(昭38)年、秋田の調査に行くために列車(新幹線などできていない時代である)に乗ったときのことである。東北本線から西に分かれて横黒線(後に北上線に名称変更)に入って30分くらいしたころ列車は奥羽山脈の山なみのなかに入り、急峻な山と谷の間をあえぎあえぎ登る。いくつかのトンネルを越えたころ、突然視野がひろがった。線路は山の中腹を通っており、下の方に田畑が見える。しかしそこはすべて草が生えていて荒れている。さらに注意してみると、廃線になったような線路が下に見え、駅舎の跡のような場所もある。何か不思議な景色だったので非常に印象的に覚えているのだが、そのかつて田畑や宅地、線路・道路だったところはダムの下に沈む運命にあったのだということを後で知った。そしてそれが湯田ダムだったのである。

翌64年、この受益地域である和賀町(現・北上市)に農家の資金需要の調査で行った。当時はまだダムは完成しておらず、開田は始まっていなかった。町の中心部を縦断している横黒線の列車から見ると両側に田んぼが広がっており、どこに開田する土地があるのかと思ってしまうのだが、ちょっとそこから離れると雑木林が延々と広がっていた。ところどころに畑が散在し、開拓農家が何戸か入植していたが、まさに山の中という感じだった。そこが開田予定地だった。

興味をひいたのは、その予定地の一部で田畑輪換(米の減反時代によく使われたこの言葉を当時は知らなかった、この時ここで初めて聞いた)の実験がなされていたことだった。それはこういうことからなされたものだった。

湯田ダムの水量では予定した開田面積のすべてに水が行き渡らない可能性がある。それを解決する方策として田畑輪換を考えた。半分水田、半分畑にして交代して使えば使用水量は少なくてすむからである。しかし田畑輪換の技術は確立していない。そこでその実験をして技術を確立しようと、開田予定地の中心部にその実験地をおき、飼料作物と稲作との輪換を農家に委託してやらせていたのである。私は生まれて初めて田畑輪換というものを見た。非常に興味深かった。

しかし、やがてダムの水量が十分にあることがわかってきた。しかも当時は米不足だった。そこで、開田地の全面積で稲を作付けすることになり、田畑輪換は中止となってしまった。もしもこの田畑輪換の方針が最後までつらぬけていたとすれば、そしてそのための技術確立に努めていれば、新たな水田利用方式がこの地域にでき、その後の生産調整対応、水田農業確立に役立っていたかもしれないのだが。

やがてダム(今は錦秋湖とも呼ばれている、景観もいい)が完成し、開田が国営・県営で始まった。1968(昭43)年に和賀町にまた行ったときは、かつての雑木林や畑がなくなっていて、一面田んぼとなっていた。雑木林だったころは山の中のような感じがしたものだったが、林がなくなって見通しが非常に良くなったために、ここはこんなに広い平地だったのかと改めて見直したものだった。同時に、なぜこれまで田んぼにしなかったのかと疑問にもなったが、これは水が得られなかったためであり、ダムのおかげでようやく念願の水田になったのである。
6月の末だったと思うのだが、当時としては珍しい60a区画の田んぼに大型トラクターが入って耕起、代掻きをしていた。開田したばかりなので田んぼの泥の中から開田のさいに切り倒した木の枝があちこちに突き出ており、これでは大型トラクターでないと代掻きはできない、それにしても田植えはしにくいだろうと思ったものだった。また、田植えの時期が遅れているのでうまく収穫できるのかも心配になった。しかし何とか穫れ、3年たったら田んぼが落ち着いて既成田の収量とほぼ同じになったとのことだった。
こうして開田は着々と進み、旧和賀町の場合は原野約900ha、畑約900ha、計1800haが水田となった。この開田は町の水田を倍増させた。そして町内の農家のうちの半数1100戸が一戸平均1.6haの規模拡大をしたのである。
こうして進んだ開田は農家を潤した。本格的に輸入に依存するようになった畑作物の低価格を解決してくれたからである。開拓農家の場合などは開田でようやく人並みの生活をすることができるようになったと喜んでいた。

こうした開田をする余地のないつまり規模拡大の難しい地域では、10a当たりの収量をいかに高めて所得を増やしていくか、つまり多収技術の導入に力を注いだ。

ちょっと補足、稲作が困難だと言われた北海道でもこの時期開田が大きく進んだが、このことについてはまた別の機会に触れさせていただこうと思っている。

本コラムの記事一覧は下記リンクよりご覧下さい。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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