人事2024 左バナー 
左カラム_シリーズ_防除学習帖
左カラム_病害虫情報2021
新聞購読申込 230901
左カラム_コラム_正義派の農政論_pc
左カラム_コラム_米マーケット情報_pc
左カラム_コラム_地方の眼力_pc
左カラム_コラム_食料・農業問題 本質と裏側
左カラム_コラム_昔の農村・今の世の中_pc
左カラム_コラム_花づくり_pc
左カラム_コラム_グローバルとローカル_pc
左カラム_コラム_TPPから見える風景_pc
左カラム_コラム_ムラの角から_pc
左カラム:JCA160_86
ヘッダー:FMC221007SP
JA全中中央①PC
JA全中中央SP

コメ開放重大局面時の浜口次官逝く ガット合意は自由化の源流に【記者 透視眼】2021年9月21日

一覧へ

ガット農業交渉重大局面時に農水事務次官を務めた浜口義曠が亡くなった。浜口が事務次官に就いたのはちょうど30年前。ガット交渉はTPPを経て農業総自由化への〈源流〉だ。記者の〈透視眼〉で見れば、「浜口とその時代」は今に至る日本農政を形作る。(敬称略)

■コメ堅持の一本道
当時の取材ノートを開いて改めて驚いた。
連日、朝8時過ぎの自民党農林合同会議を皮切りに、夜の議員宿舎取材、いわゆる記者用語で言う「夜回り」まで、びっしり走り書きで埋まる。浜口はそんな取材過程の中でも、欠かせない官僚の一人だった。

1991年から翌92年夏まで農林官僚のトップ、事務次官を務めた浜口は、見かけは紳士然とし温厚さを醸した。だが実際は舌鋒鋭く一度決めたらテコでも動かない頑固さを持つ。当時から20年後の2012年に次官となった皆川芳嗣農中総研理事長に浜口の人物評を訊くと「見た目とは全く異なる。強烈な個性の持ち主だった」と明かした。
確かに浜口のぶれない姿勢は、ガット農業交渉が大詰めを迎え、コメ市場開放、関税化が国内外から迫られていた中で、今振り返れば当時のコメ自給堅持の〈砦〉ともなった。

■〈浜口とその時代〉
浜口は農蚕園芸局長から食糧庁長官とコメ政策の主流を歩み、官僚トップに立つ。農業総自由化の「入り口」となる30年前のガット農業交渉は、コメ行政の根幹・食管制度を大きく揺さぶった。30年前の91年前後の〈浜口とその時代〉を見よう。
海部内閣から宮沢内閣へ。農相は近藤元次から田名部匡省へ。田名部は93年秋の自民党下野まで農相を続け、やがて自民党を離党する。よく「夜回り」で田名部の議員宿舎を訪ねた。青森出身のざっくばらんな性格で、元アイスホッケー日本代表だけにスポーツ談義に花が咲いた。

嘆いていたのはガット農業交渉を巡り、財界や一部の自民党幹部らから「国際交渉を成功させるためにもコメ市場開放を決断すべきだ」と言ったバッシングだ。「スポーツはみんな一枚岩で『日本頑張れ』とエールを送る。だがガット交渉は違う。逆に『負けろ、負けろ』の大合唱だ。こんな試合はしたことがない」と憤然としていたのを思い出す。
91年4月、日米合意に伴い牛肉・オレンジ自由化がスタート。自民農林族の重鎮・佐藤隆や長期政権を担った安倍晋三首相の父・安倍晋太郎元幹事長など、大物政治家らが相次ぎ他界した。コメ市場開放圧力が強まる中で、全中は7月、東京ドームで「コメを守る緊急総決起大会」を構え、徹底抗戦を内外に示す。だが、ダンケル・ガット事務局長の「例外なき関税化」方針、いわゆる「ダンケルペーパー」が出る。さらに12月下旬、日本のコメ問題などを念頭に置いたガット最終合意案「包括関税化」を示す。日本政府は合意案反対を表明し、農業交渉は越年する。

■「私は承知していない」
そんな中で91年12月、全国紙1面トップに「政府、コメ関税化容認へ」の記事が出る。末尾に小さく浜口次官の談話。「コメ関税化など私は承知していない」と。

いわゆる飛ばし記事のたぐいで誤報だった。一方で、2年後の自民党下野から細川非自民連立政権の93年12月のガット合意案受諾を振り返る時、市場開放容認の底流が脈々と続いていたのが分かる。
関税化報道から間もない翌92年1月13日、浜口は「食管制度はコメ関税化と両立しない」と改めて表明した。関税化は現行コメ政策と相容れないとの農林官僚トップの決意を示したものだ。だが、自由化の流れは止まらない。92年11月20日、対立していた米・ECが包括関税化で合意、いわゆる「ブレアハウス合意」に達し、ガット農業交渉は最終合意に向け歴史の歯車が大きく回り出す。当時、農水審議官で長年国際交渉を担い「ミスターガット」の異名もあった塩飽二郎に取材すると、コメで「例外なき関税化」除外を目指し、米農務省のオメーラ特別交渉官と何度もワシントンやジュネーブで接触を重ね、交渉合意を模索していた。そして、細川政権下の93年10月、日米農相会談で最終的な場面を迎えた。晩年の塩飽に当時の状況を訊くと、「米国の姿勢が変化し始めたのは93年夏頃」と話した。

■90年代前半、続いた骨太次官
90年代半ばまでの日本農業の根幹を揺さぶった国際交渉の大波。浜口をはじめ、対応に当たったのは骨太の次官らだ。そして、国際交渉の主軸には先述した塩飽農水審議官がいた。
92年7月には浜口に代わり京谷昭夫が食糧庁長官から次官に。94年2月末まで務めた。93年のガット農業交渉合意の時期に当たる。94年からは鶴岡俊彦、95年7月からは上野博史が次官となる。豪腕、胆力、政治力があり今に語り継がれる大物農林官僚だ。
これら4人の元次官のうち、浜口が逝き、既に京谷、鶴岡は亡くなっている。塩飽も昨年夏に亡くなる。唯一存命の上野は食糧長官時代に大凶作に伴う「平成のコメ騒動」に対応。退官後は第7代農林中金理事長となるが、2008年の世界不況の引き金、リーマンショックで退任した。上野に何度か当時の話を訊くが、相変わらず淡々と歴史的出来事を振り返る大物ぶりだ。
〈浜口とその時代〉を「透視眼」で見れば、今の農業総自由化に行き当たる。

重要な記事

ヤンマーSP

最新の記事

DiSC:SP

みどり戦略

Z-GIS 右正方形2 SP 230630

注目のテーマ

注目のテーマ

JA共済連:SP

JA人事

JAバンク:SP

注目のタグ

topへ戻る