西郷に″敬天愛人"をもたらす【童門冬二・小説 決断の時―歴史に学ぶ―】2021年12月25日

(前号から続く)
西郷を敬愛する島役人
流人を乗せた船はそれほど遅れずに島(沖永良部島)の港に着いた。船影がかなり遠くに見えてから、島役人の土持は期待に溢れた心をなだめながら、船の接近を待った。船が接岸するとすぐ走って流人の引渡しを待った。意外な光景が目の前で展開された。
最初に出てきたのは薩摩藩の役人だった。が、さぞかしきびしい態度で現れるだろう、と思っていたのに、柔和なニコニコ顔だった。
「?」土持はけげんな表情になった。なぜだ? 疑問を持つかれの前にすぐ巨漢が現れた。藩の役人に、
「すっかりお世話になりも(申)した。鹿児島へごぶじにお帰りもせ」
「こちらこそご指導を賜わり、生れ変った思いです。先生、何が起るかわからない時代です。どうか希望をお捨てにならずご辛抱下さい」
土持は半(なか)ば呆れた。
(何だ、このやりとりは)と思った。
沖永良部島は流人島としては、「流されたら必ず死ぬ」と云われている。食料が満足に得られないからだ。島役人の扱いも冷たい。流人が早く死ぬように仕向ける。
だから土持は、
(今度来る流人だけは、絶対そんな目に遭わせない)と心をきめていた。通告のあった流人の名は西郷吉之助。
聞いた時に土持は、
「え、西郷先生が?」とビックリした。西郷は鹿児島本土では若者たちにとって藩の英雄だ。
「西郷先生は薩摩藩のことだけでなく、日本国のことを考えて、殿様にもきびしい意見を申されている」という話がこの島にも次々と入ってくる。
土持はかつて本土の藩庁に勤務していた。しかし性来正義感が強く、しばしば上役と争ったのでついに島役人にトバされてしまった。だから無念の思いで胸はいっぱいだ。しかし親のしつけがよく、その無念の思いを流人に八つ当りするようなことはしなかった。珍しい人物だ。
西郷を護送してきた藩役人は引継ぎの時に、ここへくるまでの船中で、西郷がいかに礼儀正しく振舞ったかを話し、時折、自分の方から話す内容も、天下の状勢がどんなものであり、その中で、
「薩摩藩は何をすべきか、藩の役人は藩民のためにどう努力すべきかを教えて下さった。どうか粗略な扱いをしないように」と何度も念を押した。土持は大きくうなずき、
「そのつもりです。どうぞご安心下さい」
と応じた。予想しない反応だったので藩役人は驚いた。が土持の態度が本気なのでホッとした。
西郷をさらに大きくした「遺草」
土持はすでに藩の掟をかなり破っていた。掟では流人を入れる住居は戸・障子は無く、冬でも風が通るようにすること、食料は与えずに本人の採取に任せることなど、極力死への道を早く辿るように定められている。
が土持は上役の許可を得て家は自分の住家の一隅を空けた。食料も麦は入るが米飯を用意していた。菜(さい)は土持が海で釣る魚にするつもりだ。大変な好遇だ。本土の島津久光(西郷を流罪にした藩主の父)が知ったら、土持をはじめ島役人が殺されたろう。
そして意外だったのは、西郷がこの好遇を甘んじて受けたことだ。西郷はこう云った。
「土持どん、ご好意をありがたく受けます。おいは今死ぬわけにはいかぬので」
悲痛な言葉だった。その場には土持と上役、そして前から流されていた学者の川口雪蓬がいた。西郷と雪蓬は旧知の仲だった。
「今死ぬわけにはいかない」という言葉は皆の胸を叩いた。西郷の国を思う誠意がそのまま響いた。
特に雪蓬は感動し、
「先生、これをお読み下さい」と、自分が宝物のようにしていた、細井平洲の「嚶鳴館遺草(以下遺草と書く)」を渡した。西郷は書名を知っていた。
「おお、これでごわすか。何とか手に入れたいと思っておりもした。ありがとうごわす」
と喜んだ。
翌日からの西郷の生活は、模範囚のそれだった。朝は早く起きて東からのぼる日輪に手を合わせた。昼は土持に頼んで農具を使い小さな畠を作った。作物の種を撒いた。夕暮近くなると島の子供たちを集めて、孟子や遺草をテキストにして「人の道」の話をした。特に「遺草」からは、貧しい者同士の助け合いの大切さを説いた。そして夜はおそくまで「遺草」に読みふけった。まるでとりつかれたようだった。雪蓬は嬉しかった。
「遺草はオレよりも西郷先生にこそふさわしい」と思っていたからである。
西郷は「遺草」から多くのことを学んだ。書かれた"愛民"の思想は西郷の持論だ。しかし西郷はこの本によって"愛人"の考えを教えられた。民だとある身分の人々を云い、人間すべてではない。愛人は人間すべてをさす。あの憎い島津久光も含まれる。
事実、西郷はそう努めた。
(久光公をも愛すれば、おいは久光公を越えられる)そしてそうせよと命ずるのは天だと思った。天といっても日輪かも知れなかった。西郷の信条となる、
「敬天愛人」は沖永良部島で生まれた。その発生のきっかけとなったのは、雪蓬が渡した「遺草」だった。やがて天の命が久光に下ったのだろう。世論の要望に屈した久光が、
「西郷赦免」の命を出す。
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