泣き叫んだ牛たち 大地震の日の酪農家の苦悩【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第234回2023年4月6日

今から12年前の2011年、3月11日の14時46分、前回本稿に登場してもらった岩手県K町の土地は、酪農家Nさんの家は、突然大きく揺れた。これまで経験したことのない揺れだった。しかも長かった。後に東日本大震災と名付けられた地震が襲ったのである。
テレビの音が消えた。停電だ。代わって畜舎から牛の鳴き声が大きく聞こえてきた。今まで聞いたことのないような声で泣き叫んでいた。
揺れが一段落してすぐに牛を見に行ったが、とくに被害もなく、まず一安心である。少しずつ牛は落ち着いてきた。そのうち電気も点くだろう。揺れはたしかに大きかったが、それほどでもないからだ。そう思って家に戻った。
K町は震度4とのことだった。震源地が近いのだが地盤がよかったせいだろう。ただしそれは後でわかったこと、情報源は完全に断たれているので、まわりのことはまったくわからない。だから、あんな被害が出るような大地震だったとはまったく思わず、そのうち停電も解決するだろうと安心していた。
しかし、午後4時を過ぎても電気はつかない。搾乳、飼料給与の時間だが、電気が来ないので搾乳はできない。やがて暗くなり始めた。放っておくわけにはいかないので、ともかく餌やりに畜舎に行った。餌は人手でやっているので与えることはできた。
問題は給水だ。いうまでもなく水は不可欠である。餌はなくとも水があれば生きていけるくらい大事なものだ。ところがこれも電気なしで与えることができない。水はポンプで、つまり電気で地下水を汲み上げて飲み水として与え、また畜舎の洗浄等をしていたのだが、それができないのである。
そこでNさんは考えた、自然の力、落水の力を利用しようと。畜舎の裏側の高台にある小川から畜舎までの間に約50mのホースを通し、その高低差つまり水圧(サイホンの原理)を利用して水を持って来ることにした。これで給水は大丈夫となった。
しかしもっと大きな問題は解決できない。搾乳ができないのだ、電気が来なければ。
乳搾りという酪農の根幹の作業ができないのである。それに加えて、畜舎内の電灯が点かないので真っ暗で何もできない。牛は早く絞れと大騒ぎする。乳房が張って痛むからだ。餌が与えられない、腹が減ったよりも牛にとっては大きな問題なのだ。
それでもどうしようもない。明朝になれば電気が来るだろう、それまでがまんさせるより他ない、そう思って耳をふさいで布団に入った。
寒い夜だった。
翌12日、朝早く起きた。寝ていられなかった。やはり電気は来ていない。牛は悲鳴をあげている。放っておくわけにはいかない。手で搾るより他ない。そうしなければ牛の苦痛を解決できないし、病気にもなってしまう。
そこで朝6時から手で絞り始めた。ミルカーを導入して以来だから42年ぶりとなる。とはいっても身体が覚えているので手搾りは簡単にできる。しかし牛にとっては生まれて初めての経験だ。手搾りをいやがり、暴れる牛もある。それで搾りやすい牛から搾り始めた。
ところが、1頭搾り終るのに約30分かかる。その昔はもっと短い時間ですんだのだが。1頭当たりの泌乳量がかつてとは比較にならないほど多くなっているからだ。つまり牛の品種改良が進み、乳を出す能力が大幅に高まっているのである。それに加えて前夜搾らなかったので貯まっている。
夫婦二人で搾るのだが、これではとんでもなく時間がかかる。
ふと思いついた、乳頭が怪我をしたときに使う「導乳管」(註)というのがあるではないか、これだと10分くらいで搾り終えることができる。問題はこれを使うと乳房炎になりやすいことだ。できれば使いたくない。でもやむを得ない、町の農業共済組合の事務所に4~5本おいてあるのでそれを借りよう、そう思ってすぐに車を飛ばした。しかし考えることはみんな同じ、他の酪農家も借りに来ていて、もうない。
結局夕方まで手搾りを続けた。暴れてどうしても搾乳できない牛4~5頭はやむを得ず残して終わりにした。
24頭を二人で朝から晩まで約12時間かけて搾ったことになる。しかし、その苦労も水の泡、いや乳の泡、苦労して搾った牛乳はすべて畜舎内の通路に流して捨てるより他なかった。パイプラインが、バルククーラーが動かないからだ。貯蔵しておけないので捨てざるを得ない。朝早くから1日稼いで1銭にもならなかった。
その夜(12日)10時ころ、何と電気が点いた。そこですぐに畜舎に行き、搾りきれなかった牛の搾乳をした。すべて終わったのが11時だった。
翌13日朝、いつものように搾乳し、バルククーラーに入れた。しかし、今度は乳業会社の集乳車・タンクローリーが来ない。停電の影響で工場が動かないからだという。また牛乳を捨てるより他なかった。
何とか正常に戻ったのは14日だった。11日の午後から13日までの2日半の苦労でともかくすんだ。
しかし、これだけではすまなかった。
(注)私は見たことも聞いたこともなかったのだが、北上山地出身の農経研究者NK君に聞いたら、「乳房炎などで乳頭内の乳管が細くなってしまった牛に,治療の前処理として乳管に差し込んで通りを良くする細い管のこと」で、大きな注射器のような形をしているとのことである。なお、これを健全な牛の乳管に差し込むとそこから細菌が侵入し乳房炎になってしまうリスクがあるのだそうだが、今回はやむを得なかったのだろう。
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