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(455)「繰り返し」と「一度きり」【三石誠司・グローバルとローカル:世界は今】2025年10月3日

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毎日の生活は同じことの「繰り返し」のように感じることはありませんか?でも、ふとした瞬間に、些細な日常の一コマが、実は貴重な「一度きり」の出来事であったことに気が付くことがないでしょうか。

 毎日の通勤や定型的な日常業務は、仕事をしている時には果てしない「繰り返し」に見える。「繰り返し」は単調に見えるが、良い面もある。代表的なメリットはその行為や作業に対する習熟度が上がる点だ。同じことでも何十回、何百回と実践することにより、流れるようによどみなく出来るようになる。

 また、内容によっては長期にわたる「繰り返し」が社会的な評価となることもある。数多くの人が早々にあきらめてしまう中で、時間をかけてひとつの作業や行動を継続した結果、他人には模倣できないような作品や成果を生み出すこともある。

 こう考えると、30年以上、満員電車通勤を継続してきた人などは、空きそうな座席の前に立つ方法など言語化できない多くの通勤ノウハウを習得しているのであろう。

 「子育て」はどうだろうか。筆者も経験があるが、初めての子供が生まれてしばらくは、夜泣きが未来永劫続くような気がしたものだ。だが必死に毎日を乗り切っているうちに、いつのまにかそのステージは通り過ぎ、今となっては長い時間の中での「一瞬」のような印象になる。

 永遠に続くと思った時間が、実は再現性のない瞬間であり、「一度きり」のものであった... 筆者自身そう気が付くようになったのはここ数年のことかもしれない。例えば、筆者は通算して7年ほど米国で生活してきたが、その中で明確に印象に残る日常の風景がある。いくつかの町で目にした本当に何気ない日常的な風景や自分の行動である。それは例えば、ある時、なぜかあるモノを選んだ瞬間であったり、家族や同僚とのいつもの会話風景であったりする。

 インターネットなどが普及していなかった時代に、紙の地図を頼りに一人で米国中西部を回っていた時代の記憶などは、一面のトウモロコシ畑よりも、座席の後ろに無造作に放り込んでいた衣類や書類の散らかったイメージの方が鮮明に残っていたりする。

 中西部のトウモロコシ畑は何度も見ていても、強く記憶に残っているのはその途中で見た何気ない風景や出来事である。不思議なものだ。

 一般に、記憶の定着には「習慣化」や「繰り返し」が必要であると言う。それはその通りだろうが、数十年の時を振り返ると、定着している記憶の多くは「一度きり」のものが多いようだ。その時は深く考えなかったが、振り返ると人生の中であれが唯一の機会・経験であったからこそ、何十年たっても記憶に残っているのであろう。
 そう理解してみると、同じような行動が続く毎日の中で、いかに意識して毎日行動するかが非常に重要であることがわかる。

 恐らく、今、目の前にある単調な「繰り返し」のような仕事や作業も、視点を少し変えて見ると、二度と来ない時間なのかもしれない。通勤や通学、友人や同僚との雑談、子供や家族との時間... いずれも振り返ることはできるが、同じ時間をもう一度取り戻すことはできない。

 筆者も、いまだに小学校や中学校時代の通学を夢に見る時がある。冬の朝などは指定された時間までに集合場所に集まるのにかなり苦労した。あわてた記憶が相当鮮明に残っている。あるいは部活でインターバルをこなしていた記憶も時々登場する。その時は永遠に続く「繰り返し」に思えたが、過ぎて見れば一瞬である。

 人生の愉しさは、意外と単調な「繰り返し」をどう受け止めるかにこそ隠されているのかもしれない。

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