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戦前戦後の髪型の変化と床屋、パーマ屋さん【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第360回2025年10月16日

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今回の題名に「戦前戦後」と書いたが、これは第二次時世界大戦(大東亜戦争)の前、中、後という意味で使っているので、ご了解願いたい(ベトナム戦後と間違えた教え子もいたし、不幸なことにその後も何度も世界で戦争が起きているのだからやむを得ないのだが)。

 前回頭髪の話をさせていただいたが、もう少しその続きの話をさせてもらおう。
 私の小さいころの昭和初期は、男はみんな坊主頭(丸刈り=頭髪を全体的に短い長さに刈る髪型)だった。髪を伸ばして七三に分けている人もいたが、それはお役人か高級サラリーマンだけだった。たとえ伸ばしても、満20歳の徴兵検査(注)のときには切らなければならなかった。兵隊はすべて坊主頭だったからである。
 子どもも坊主頭だったが、そうでないものつまりいわゆる坊ちゃん刈りをしているのは、医者の息子などお金持ちの子どもだけで、私の小学校には一人もいなかった。
 女の子はみんな「おかっぱ(=前髪を額に垂らし切り下げ、後髪を襟足辺りで真っ直ぐに切りそろえた髪型)」だった。
 いずれの髪型にせよ、みんな床屋さんに行って整えてもらった。私も、髪が伸びてくると近くの床屋さんに行き、バリカンで頭をくりくりにしてもらったものだった。一歳下の妹も当時女の子に流行りのおかっぱ頭にするために床屋に行っていた。
 ただし、女の子は学校を卒業するころになると髪を長く延ばし、若いころはそれを三つ編みにし、結婚したらそれを後ろでくるっとまるめるだけなので、結婚式など特別なことがないかぎり、床屋はもちろん髪結いさんにもいかなかったような気がする。私の母と祖母は、長い髪を後ろに丸めているだけなので伸びすぎると自分ではさみで切ってそろえていた。夏になると母がよく井戸のわきで髪を洗い、髪を切っていた。くしけずるために髪を前にたらすと母の顔が髪で見えなくなり、幽霊みたいになるのでいやだった。
 しかし、若い女性のなかに美容院(当時は「パーマ屋さん」と呼んでいたが)でパーマネントをかける人も出てきていた。
 ところが、日中戦争が泥沼に入ったころ、こんな言葉が流行った。
 「パーマネントは やめましょう」
 パーマは欧米の悪い習慣、派手なおしゃれは戦時下にふさわしくないと軍部が言いはじめ、それに官民あげて呼応し、あっちこっちにポスターが貼られたりしたのである。そして女の子は「おかっぱ」もしくはお下げ髪、大人は丸髷、男はみんな軍人並みに坊主頭)にさせられた
 私たち子どもも何が何だかよくわからないが、「パーマネントはやめましょう」という政府発行のポスターの言葉をみんなで大きな声で叫びながら遊んだものだった、何となく調子がよかったからだろう。
 ところで、私の小学三年の担任だった若い女の先生のあだ名がその「パーマ」だった。禁止運動が盛んになる前にパーマをかけていたということかららしいが、そのあだ名は非国民を意味するので、かなりいやがっていた。
 ちょうどそのころから、男はすべて坊主頭になった。国民総動員、坊主頭の軍人の気持ちでみんな戦わなければならないときに頭髪を伸ばしているのは非国民だという雰囲気にさせられていたからである。

 わが家にも変化があった。太平洋戦争が始まったころ、私が小学校に入ったころではなかったかと思う、父がバリカンを買ってきて私たち兄弟と祖父の頭髪を刈ってくれるようになったのである。縁側に座り、エプロン代わりに大きな風呂敷を首にかけて胸の方におろし、父が私たちの後ろに行き、前に行きしながら刈ってくれ、西洋カミソリで顔を剃ってくれた。祖父のもわれわれ兄弟のもすべて父がやってくれたが、父の頭については母がやっていた。髭剃りは父が自分でやっていたが。
 自分の家でやれるのに他人に頼んで金をとられることはない、こういう農家の自給自足の精神からだったのではないかと思うのだが、家族数が多く、床屋の料金もばかにならないこともあったのだろう。

 戦後、当然のことながら頭髪については自由になった。そして1950年代には都市部の成人男性のほとんどが髪を伸ばすようになった。戦勝国であるアメリカなどは丸刈りなどしておらず、みんな長髪、文明人はそういうみのらしい、我々も遅れてはならない、ということなのだろう。となると床屋さんでその調髪をしてもらうしかない。

 一方、若い女性は、同じように、戦勝国の欧米に学んでパーマネントをかけるようになった。戦後どっと入ってきた欧米の映画、みんなパーマ、洋服じゃないか、スタイルもいい、美人だ、となると、女性はパーマ屋さんに行って髪を切りそろえ、ウェ―ブをかけてもらわざるを得ない、とくに「家」に縛られていない若い女性はそうなる。新憲法下で男女平等が言われるようになった世の中、ましてやだ。

しかし、農家の男女は違った。私の父などは一生丸刈りで通した。汗っかきの父、しかも外で土をいじる仕事、髪など伸ばしたらやっていられないということだったりだろう。

女性もそうだった。昔通りの髪型をしていた。
 しかし、1953年の映画『ローマの休日』のヘプバーンカットは大きな転機となった(このことについては次触れさせてもらいたい)。
農村の青年達のなかにもリーゼントスタイルが見られるようになり、流行の髪型が農村でも普通に見られるようになってきた。
そしてパーマ屋さんと呼ばれていた美容院が各地にでき、やがてそれは農村部にも波及し、さらには農協が美容院を開設するまでになった。
「もうけ仕事となればパーマ屋まで始める農協」と悪口も言われたものだったが、農村に女性のための美容院がある、薄汚れて醜い百姓女とまで都会人に嘲られた農村女性がいつもきれいでいられるようにする、農協営美容院、けっこうではないか、こんなこともあのころ考えたものだった。
過疎化の進んだ今の農山村を見ると、そんなことを考えていた1960年代(私の若かった頃)がなつかしい(次回に続く)。

(注) 満20歳に達した成人男子全員に身体検査を行い、兵役の対象者を選抜する制度。1873(明6)年から1945(昭20)年まで実施された。

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